When the Music's Over

音樂の話とゲームの話

Still sane, exile?

おい、更新サボってんぢゃねーぞ、この三日坊主野郎が、 と思はれてゐる方々、申しわけない。

確かに、先週はサボった。 といふか、書きたいことがなかったのである。 こればっかりはどうしやうもない。 まあ、レコードはけっこう買ったのだが。

そして、今週からは、ますます更新できない。 Path of Exile(以下、PoE)の新リーグが始まってしまったからだ。

三ヶ月に一度、新要素が導入される PoE だが、 今囘はかなり大幅なアップデートだった。

まづその 1。 3.2、3.3、3.4 で導入された新要素が 正式にゲームに採用された。

PoE のリーグ要素といふのは、 基本的にそのリーグ限りといふことになってゐて、 正式採用(コア入り、といふ)されるかどうかは未定である。 まあ、最近のものはなんやかんやで大抵のものは実装されてゐるが (見送られたのは Harbinger ぐらゐか?)、 評判の惡かった 3.2 の Bestiary(ポエモンと呼ばれてゐた)は 採用しません!と云はれてゐたのである。

それが、ここへ來て 3.3 の Incursion、3.4 の Delve とともに 一氣にコア入りした。 おれがやったのは 3.3 の Incursion だけだが、 それ以外のやつができて嬉しい! といふ喜びより、やることいっぱいあって大變! といふ思ひの方が強い。

その 2。 各種クラフトを担当してゐた hideout(PoE でのプレイヤーの本拠地みたいな場所)のマスターたちが Zana を殘して一新。 Bestiary、Incursion、Delve のマスターたちと、hideout 管理人が 新たに加はった。

PoE はプレイヤーのレベル上げ以外に、 このマスターたちのレベル上げといふ要素があった。 マスターたちのレベルを上げることでクラフトのレシピが開放される、 といふ仕組みだったのである。

で、このマスターのレベル上げなのだが、 これがまあひたすらデイリーミッションをこなすしかない といふ實に面倒なものだったのだ。 しかし、その面倒なシステムは撤廢!  クラフトのレシピは、フィールド上にあったり、 アイテムから學んだりすることになり、 要するにせっせと普通にファームしてゐれば手に入ることになった。

大きな變化はこの 2 つなのだが、 新しくなったクラフトシステムは やたら強烈な効果が存在するのが明らかになってゐるし、 新リーグの敵はめったくそに強いしで、やり甲斐ありまくり。

個人的に嬉しかったのは、前囘スルーしてしまった Delve が樂しめること。 トロッコを追って鉱山を掘り進んで行くだけ、 といふ實に單純な要素なのだが、これが滅法面白い。 とにかくずんずん進んでいけばゲームに必要なものはたいてい手に入ってしまふ (クラフトレシピは限られたものしか手に入らないが)。 しかも、鉱山は無限に續いてゐるのだ!  正直、ずっとこれだけやってゐたいレベルである。

先週の土曜に始まったばかりなので、 まだまだ序盤でわからないことだらけだが、 やっぱり PoE は樂しい、との思ひを新たにした。 あの装備をあんなふうに換裝したら強くなれさうだ、 などと考へるのがとまらない。 風呂に入ってゐるときですら、 そんなことばかり頭に浮かんできてしまひ、 おちおち湯船に浸かってゐられなくなるほどだ。

タイトルの Still sane, exile? といふのは、 唯一馘首にならなかったマスター Zana の科白だが、 いやまったく正氣でなんてゐられない。

そんなわけで、當分 PoE に insane な日々を送るので、 こちらの更新は滯ります。惡しからず。 PoE のことは書かないのか、と云はれさうだが、 PoE の日本語ブログはいいものがいくつもあって、 わざわざおれのやうな初心者が書く意味がない。

まあ、たまに氣が向いたらまた音樂の話でも書かう。 ではまた。

Coil: Love's Secret Demise

CoilLove's Secret Demise が CD 化されるといふ。

Coil はおれが最も好きなインダストリアル・バンドである。 かつては公式サイトから flac が買へたりもしたが、 その公式サイトも今はなく、 多くのアルバムは廃盤の憂き目を見てゐる。 今囘の Love's Secret Demise は 大名盤 Love's Secret Domain のデモ音源だが、 そもそも Love's Secret Domain が廃盤である。 かつて公式で賣られてゐたリマスター音源はどうなってしまったのだらう。 bandcamp で賣ってくれればいいのに。

とはいへ、近年は Dais Records がちまちま再發してくれてゐる。 おれが愛してやまない Time Machines が 再發されたときは欣喜雀躍したものだ。

Love's Secret Demise をリリースするのは Mythras といふレーベルらしいが、これが全くの謎。 なんたって、このアルバム以外にリリース情報がない。 discogs にすらページがないのだから、できたばかりなのだらう。

デモ音源集なんてものは普段なら買はないのだが、 さすがに Coil ほど好きなバンドの、 しかも大好きなのに廃盤になってゐるアルバムのデモなんて云はれてしまっては、 買ふほかない、といふ氣持ちになってしまふ。

まあ、もう注文したんですけどね。 disk union は入荷數が足りませんでした! とかって豫約商品をキャンセルしてくることがあるから不安だなあ。 Rough Trade とか Norman で賣り切れ扱ひになってゐるのも不安を煽る。

送料無料にするためにエンケンの CD も注文したんだが、 その際に 夢よ叫べレコードがアウトレット扱ひになって 2000 円ほど値下がりしてゐるのを見た。 新品で買ったのに、そりゃないぜ…。 いや、まあ、おれもユニオンのアウトレットにお世話になったことあるから、強くは云へないが、 そりゃレコード 3 枚組だからって再發ものに 7500 円は賣れ殘るよ。 最初から安く賣ってくれりゃあよかったのに。

しかし、YouTube にあるから聽いてはみたが、 やっぱりデモはデモだなあ。 Disco Hospital も入ってないし。 まあ、Teenage Lightning が入ってるからよしとしよう。

Crossing Souls #1

Steam のオータムセールが始まったので、 ウィッシュリストに入れてゐた Crossing SoulsBeat CopThe Talos Principle の 3 つを買った。

で、いつもゲームは買ふだけで済ませて すぐにやらないことばかりなのだが、 一應、初回起動で設定をいじったりしておきたかったので Beat CopCrossing Souls の 2 つはちょいと触れてみた (The Talos Principle は氣合入れてやりたいのでお預け)。

おいおい、Crossing Souls 面白いぢゃねーか!

平たく云へば、2D アクション RPG なのだが、 氛圍氣がべらぼうにいい。 1986 年カリフォルニアが舞臺になってゐて、 ゲーム的に無駄なものがそこらに配置されてゐる。 これらを調べて廻るだけでもけっこう樂しい。

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まあ、この 80 年代テイストは早々になくなってしまふらしいが、 序盤はもう歩いてるだけで樂しい。 最近、歳をとった所爲か、ゲームの餘分な要素が全く樂しめなくなってゐて、 「おれはゲーム原理主義者なんだよ、ストーリーとかいいからゲーム性で勝負しろよ」 と嘯いてゐたのだが、 態度を改めますわ。すまんかった。

實際、このゲームの魅力は説明しづらい。 まだ chapter 1 しかやってないのだが、 chapter 1 の段階では アクション要素はあんまりない。 敵と戰ふシーンがそもそも少ないからだ。 アクションの操作性はキャラごとに違ふのだが、 どのキャラも癖があって、操作してて樂しいアクションゲーム、 といふわけでもない。

なのに、なんだかわからないがめちゃくちゃ樂しい (80 年代をこのゲームの主人公と同じやうな年齢で過ごした身だからか?)。 音樂も 80 年代風で、歩いてるだけでウキウキしてしまふ。 集めても意味がなささうなカセットやビデオなども 80 年代ネタばかり。 時折挿入されるアニメも完全に 80 年代アメリカン・カートゥーン。

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好みはハッキリわかれるゲームだと思ふが、 この氛圍氣を樂しめるなら間違ひなく買ひ。 いやー、いい買ひ物した。

しかし、dredmor のこと書いたときに 2018 年なのになんで平面のゲームしてんの? って友人に云はれてしまったといふのに、また平面のゲーム買ってしまった。 平面のゲーム大好きだからしょうがない。 3D ゲーなんて 7 Days to DieDishonored 2(すぐやめた)ぐらゐしかやってない。 7 Days to Die は experimental 版とはいへ、一年ぶりのアップデート來てるしやりたいんだけどね。 一人でやるとゾンビ怖いから…。

Dungeons of Dredmor #3

記事が #2 までしかないやんけ、どうなってんねん、 と思った方々、誠にすまない。

いやねえ、やってはゐたんですよ、やっては。 ちゃんとクリアもしました。 御覧の通り。

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でね、まあ、クリアしましてですね、 「おまへ、これもっかいやる?」って 云はれたら、nty ですわ。

つまらん、といふわけぢゃないのよ。 たぶん 3 年ぐらゐして、 この記憶を忘れ去った頃に再びやったら、 新鮮な氣持ちで樂しめるだらうな、 とは思ふのよ。

でも、何囘もやりたいとは思はない。 1 囘でいい。 1 プレイがなげーんだよ!!!!!

秋川藤志さん、といふ SFC の『トルネコの大冒険』 *1 を何千回も遊んでをられる方がゐる。 あれが可能なのって、 ゲームの面白さはもちろんだが、1 プレイが短いからだと思ふ。

おれはマップを凡て埋めない限り、 次のフロアに進まないといふスタイルでプレイするのだが、 これだと Dredmor を 1 囘クリアするのに 20 時間は餘裕でかかる。

おれがこのゲームに慣れてゐない、といふのも大きな原因の一つではある。 アイテムやスキルの取捨選擇が瞬時にできないし、 敵はいちいち相手してしまふし、 アイテムは捨てずにいちいち隠れ家みたいなところに置きに行くし、 といった具合で、早く進めるはずがないプレイスタイルなのだ。

しかし、それを差し引いたところで、 10 時間を切るとは思へない。

いやね、時間がかかるから惡いって云ひたいわけぢゃないんですよ。 時間のかかるゲーム、外にもやってますしね。 Kenshi だとか Factorio だとか。

でもね、ああいふゲームは、いつの間にか時間が過ぎてるわけ。 やることが次から次へと出てくるから、 それをこなしてるだけで、時間が經っちゃう。 さういふのはいいんだよ (まあ、Kenshi はちょっとだるいときがあるけど、 そのために早送りボタンもついてるし)。

でも、Dredmor はだるい時間が長過ぎる。 中盤まで來て、何かしらのスキルをマックスにしてしまふと、 だいたい戰鬪はそれを使ひ續けることに終始してしまふ。 はっきり云へば單調なのだ、戰鬪が。

もちろん、敵はどんどん強くなるので、 囘復や囘避といったスキルを使ふやうにはなる。 でも、やることがそんなに大きく變はるわけではない。

2 時間ぐらゐならいいよ。 でもそれを、10 時間やる氣になるか?

おれはいやだ。

それとさ、ローグライクといへば、ランダム要素ぢゃないですか。 でもこのゲーム、そこがすごく弱い。 ダンジョンの構造だとか敵の配置はまあランダムですよ。 でも、自分が最初に選んだスキルを育てる、といふシステムが ランダム要素を決定的に邪魔してゐる。

ローグライクの大きな樂しみは、 「今囘はこのアイテムを拾ったか。ぢゃあどう育てようか」 といった試行錯誤だ。 だから、先にビルドが決まってゐると、ローグらしさといふのは失はれてしまふ。

でも、このゲームは最初にビルドを決めなくてはならない。 さうなると、拾ったアイテムは「自分のビルドに必要かどうか」 といふ觀點のみで価値が決まってしまふ。 どんなアイテムでも使ひやうによっては強い、といふのが ローグライクの樂しいところなのに!

だったらローグを期待しなきゃいいぢゃん、といふ話だよね。 うん、それが正解だと思ふ。

さうすると、このゲームは自分で決めたビルドで ダンジョンを踏破できるかどうか、といふゲームになるわけだ。

それはそれで、面白いゲームだと思ふ( 例へば、おれはなんとなく途中で放置してしまってゐるのだが、 Legend of Grimrock は まさにそんな感じのゲームで、これは滅法面白い)。

でも、それにしてはビルドを組み立てるために与えられた情報が少なすぎるし、 情報があったとしても、15 フロアは長過ぎる (まあ、DLC なしにすればフロアは少なくなるが、 さうすると使へないスキルができてしまふ)。

勘違ひしてほしくないのだが、決してつまらないわけぢゃあないのだ。 情報がきちんと出揃ってゐて、 もう少し短ければ、繰り返し遊んだらうな、と思ふ。

他人のビルドを見て、「ふーむそんなスキルがあるのか、それはなかなか面白さうだぞ」 と思ふぐらゐには好きなゲームだ。

ただ、前に書いたやうな、「おれがガイドを作ってやらうか」 といふやうな氣分にはなれない。 何百時間かかるかわからないし、 そこまでの時間を費やしたいと思へるほどのゲームではないのだ。

値段は安いし、その分は間違ひなく樂しめる。 でも、値段以上に樂しめるか、と問はれればそれは微妙なライン。

せめて、半分ぐらゐの長さならなあ。

*1:『トルネコの大冒険』は Dungeons of Dredmor と同じくローグライクで、ゲーム性もかなり似てゐる(はず)

Dr. JB

Jim O'Rrourke をして即興演奏に關しては自分の父のやうな人と云はしめるギタリスト Henry KaiserRequia and Other Improvisations for Guitar Solo といふアルバムを Tzadik から出してゐる。 タイトルはもちろん、John Fahey の恐らく最も有名なアルバム Requia and Other Compositions for Guitar Solo の もじりである。

John Fahey のものと同じく Henry Kaiser のアルバムも 一曲ごとに人名がついてゐて、 大抵は有名人なのですぐわかる。 ちょっとピンとこない名前であっても、 ググればわかる(し、意識せずとも聽いたことがある)程度の名前ばかりだ。

しかし、一つだけわからない名前があった。 2 曲目で言及されてゐる Dr. JB といふ人だ (2 曲目のタイトルは Famadihana Requiem for Dr. JB)。

ググってみたが、ほとんど情報がない。 いや、ないといふわけではないが、 どうやらマダガスカルの人らしく、 引っかかる情報はフランス語が主 (マダガスカルがフランスの植民地だったため)。 日本語の情報は絶無で、英語の情報すらほぼない。 *1

ちなみに、こんな音樂である。

いや、仰天した。 世界の廣さを改めて思ひ知らされた。 こんなリズムがあるのか。

再生回数から判斷するに、マダガスカルでは一定の人気があるやうだ。 salegy といふマダガスカル獨自の音樂らしい。 Eusèbe Jaojoby なる人物がこのジャンルの大家ださうだが、 こちらは Dr. JB ほどの驚きはない。

この salegy といふ音樂、リズムは 6/8 拍子が基本らしく、 テンポの速さも相俟って 2/4 拍子あるいは 4/4 拍子として聽くこともできる。 別に變はったリズムといふわけでもなく、 實際、Eusèbe Jaojoby の曲はどれもそこまで違和感を覺えることなく聽ける。 他にもいくつか salegy とされるアーティストの曲を聽いてはみたが、 やはりどれもそんなに變ではないのだ。

なのに、Dr. JB には氣持ち惡い曲がたくさんある。 アルバムまるまる聽くと(YouTube に何枚かアップされてゐる)、 上に舉げたやうな、まあ普通と看做せる範疇のリズムの曲も多い。 しかし、いくらかの曲は、どこかギクシャクした印象を受ける。

この違和感は、アクセントのずれから來てゐる。 普通、6/8 拍子は強弱弱強弱弱のアクセントで演奏される。 2/4 拍子として聽けるのは、このアクセント配置のためだ。

Dr. JB の曲でも、基本的にこのアクセントは守られてゐる。 その上で、それより細かい 16 分音の位置から上モノを入れたり、 あるいは上モノのみアクセントをずらしたりすることで リズムのズレを生んでゐる。 微分リズムといふほど細かい位置に入ってゐるわけではないから、 慣れれば氣樂に聽けてしまふが、 しっかり聽くとリズムの絡みの巧みさには舌を巻く。

例へば、下に舉げる動画の 1 曲目の Aza Pariaka なんかすごい。 これはどちらかといふと、上モノが正しいアクセント配置を守ってゐて、 ドラムがずれているやうに聞こえる。 どっちがずれてゐるかといふのは、基準をどちらに置くか といふだけの話なので、あまり大した意味はないが (ちなみに、この動画のほかの曲はわかりやすいリズムのものばかりである)。

つまり、Dr. JB はポリリズムなのだ。 全員が 6/8 拍子の枠で演奏してゐるのに、 アクセントや演奏開始位置をずらすことで 複数のリズムを曲に織り込んでいゐる。

普通、ポリリズムと聞いて連想するのは、 異なる拍子が同居した曲だ。 Sun Ra の Space is the Place あたりがわかりやすい。

ドラム、キーボード、ヴォーカルは 4/4 拍子だが、サックスのみ 5/4 拍子である。 繰り返しの單位がずれているわけだ。 このやうに、ポリリズムとされる曲は、たいてい複数の拍子が同じ曲中で演奏されるものである。

Dr. JB の曲はさうではない。 繰り返しの單位は全員 6/8 拍子だが、 繰り返しを開始する位置がずれているので、 複数のリズムが混在してゐるやうに聞こえてしまふ。 なんとなく氣持ち惡いのはその所爲である。

かうして文字に書くだけなら簡單だが、 實際に演奏しようとすると、これは至難である。 リズムは合はせるが、タイミングは合はせないといふ演奏になるからだ。 樂譜に起こしてしまへば、それほど複雑なリズムではないが、 日本で聽けるポピュラー音樂のやうに單純なリズムに馴れた耳を持ってゐると、 これを再現するのは難しいだらう。

そんなわけで、あまり聽けないリズムに意図せず出会へたことに興奮してゐるのだが、 一つ大きな問題がある。 どこにも CD が賣られてゐないのだ。 Amazon はもちろん、discogs にすらない。 といふか、アルバムデータすらない。

仕方ないので YouTube でアルバムまるまる再生してゐるが、さすがにこれは不便だ。 普通のリズムの曲は要らないので、氣になった曲だけ買へればそれでいいのだが、 どうにかならないものだらうか。 bandcamp あたりで販賣してくれると最高なのだが、 肝心の本人は既に鬼籍に入られてゐるし、望み薄だらう。

まさか、大抵のものが容易に聽けるやうになった今の時代に、 これほど入手が絶望的な音源が存在するとは。

*1:madagate.org の記事によると 2011 年に亡くなっているやうだ。

Yuasa Manabu: Analog Mystery Tour

おれがここに書き散らしてゐる文章は、 たんぽぽコーヒーのやうなものである。 コーヒーを淹れたいと切望してゐるのに豆がない。 しかしコーヒーを淹れたいといふ欲求が 抑え切れないので、仕方なくたんぽぽで作ってゐるのだ。

何の話といふと、音樂批評あるいは音樂評論のことだ。 おれは自分が書いてゐるものを批評や評論であると 思ったことはない。

なぜか。

それは、おれが批評や評論といったものに、 理由を求めてをり、 それが欠如してゐるものを批評や評論として認めてゐないからである。

批評および評論といふものは、 「評」といふ字を含むことからもわかる通り、 對象の價値を評價するものだ。

しかし、ただあれがいいこれがいい、それが惡いどこが惡い などといふだけでは、感想文に等しい。 評論といふからには、「なぜそれがよいのか」「なぜこれではだめなのか」 そういったことを、きちんと論じてほしいのである。

悲しいかな、音樂批評や音樂評論とされる文章に、 そんなものが存在してゐたことはない。 屁理屈がついてゐるものはあるが、屁理屈の域を出たものは見たことがない。

もちろん、好みといふ大きな壁があるから、 何も萬人を納得させる理由を常に提示しろ、とまでは云はない。 しかし、「なぜその曲をすばらしいと感じるのか」といふことに 真摯に向き合ってゐる評論ですら、滅多にお目にかかれない。

觀念的な話をしてゐるのではない。 音樂とは結局、響きである。 社會的、文化的、歴史的、思想的なものが全くないとは云はないが、 さうしたものは飽くまで周辺情報でしかない。

われわれが今、Celibidache の Nutcracker Suite を聽く際に、 いちいち Celibidache や Tchaikocsky の歴史的立ち位置を氣にかけて音樂を聽くだらうか。 その音樂がなぜ生まれたのか、といふことを考へる上では、 さうした社會的文化的歴史的思想的なものに目を配るのも重要だ。 しかし、その音樂をなぜ好ましく感じるのか、といふ點を考へるのに必要といふわけではあるまい。

例へば、The Beatles。 世界中の多くの人々が知る音樂である。 では、The Beatles の曲は、なぜそんなにすばらしく響くのか。 なぜ人の心を打つのか。

さうしたことをきちんと論証してゐる批評や評論を、 おれは見たことがない。 しかし、おれが知りたいのはそこなのだ。

假にそれが可能になったからといって、 誰もが The Beatles になれるといふわけではない。 料理の作り方がわかるからといって、 プロと同じ味は出せまい。 だが、作り方ぐらゐは知っておきたい。 さう望むのは、自然なことではないか?

樂譜の話をしてゐるわけではない。 どのやうな音の連なりが、響きが、組み合わせが、音色が 人間の心にどういった作用を及ぼすのか、 さういったことが知りたいのだ。 それが批評の、評論の仕事であらう。

なのに、音樂評論と呼ばれるものは、 さうした試みをほとんどしてゐない、 否、しようとすらしてゐないやうに思へる。 おれが知らないだけかもしれないが、 さうしたことに自覺的なのは菊地成孔ぐらゐのものである (菊地成孔は音楽評論が本業ではないのに!)。

だから、おれは音樂評論といふものをほとんど信用してゐない。

そんなおれが愛讀する、數少ない音樂評論を書いてゐるのが湯浅学だ。

菊地成孔が極めて理論的に音樂のよさについて迫らうとするのに対して、 湯浅学は、全く非論理的に音樂のよさを描く。

おれは音樂のよさといふものは全部ではないにせよ理論的に説明が可能なのではないか、 といふ希望を持ってゐる。 これは、かなり樂觀的かつナイーヴな希望だ。

一方で、音樂には説明不能な部分がどうしてもある、と思ってもゐる。 音樂のよさは、個々人の好みや時代などに大きく左右されるからだ。

湯浅学は、さうした音樂の「わからない部分」を わからないなりに描き出さうとしてゐる評論家だと思ふ。 だから、湯浅学の評論に論理はない。 論理のないところを、ああでもないかうでもないと彷徨ひ、 その彷徨った樣を見せてくれる、稀有な評論家なのだ。

この『アナログ・ミステリー・ツアー』といふ本は、 その湯浅学が出した、評論ではない本である。

内容は極めて單純で、The Beatles の各国盤レコードをひたすらに 聽き比べる、といふものだ。

ところで、音樂にまつはることの一つで、 批評をほとんど免れてゐるものがある。 音質だ。

一般的に、音樂は「いい音」で聽くことがよしとされてゐる。 であるからこそオーディオマニアと呼ばれる人種が存在するのだし、 リマスターやハイレゾといったものが求められる。

この本は、さうした無邪気な思ひ込みを崩壊させる。

レコードは、最初からレコードとして存在してゐるわけではない。 マスターテープと呼ばれるテープが存在し、 それをプレスできる形に落とし込む必要がある。

この本で採りあげられてゐる The Beatles の時代は オープンリールが主流だが、 現在はデジタルデータが多いだらう。

このマスターテープの音が、その儘われわれの元に届くことはない。 レコードでも CD でもハイレゾ音源でも、 メディアに適した形にするために、マスターの音は加工される。 その作業は、マスタリングと呼ばれる。

The Beatles のレコードは、世界中でプレスされてゐる。 當然、その全てが UK でプレスされたなどといふことはなく、 普通はマスターテープのコピーから、 現地で現地プレス用の原盤が作られる。

そのプレス用の原盤を作る際にマスタリング作業が発生するため、 プレス結果であるレコードの音が各国で異なる、といふ事態が発生する。

一部のマニアしか考慮しないその要素を追求しまくったのが、この本である。

最新リマスターだから、本人監修だから、ハイレゾだから、 オリジナルマスターだから。 音樂にうるさい人間なら、さうした文言に心を動かされ、 持ってゐるものを買ひ直したことは一度や二度ではあるまい。

この本は、さうした無批判な「いい音」といふものの牙城を打ち崩す。

われわれが聽いてゐるのは、飽くまで誰か (基本的にはマスタリング・エンジニア)が考へた「いい音」でしかない。 ある音盤が作られる際には、必ずさうした誰かの思想、信條、ポリシーが介入する。 そして、その音ですら、われわれが聽く環境や機材や體調や心理状態によって變化させられてしまふ。 デジタルデータであり同一マスターからのプレスが可能な CD やハイレゾ配信も、 そこからは逃れられない。

上巻である『アナログ・ミステリー・ツアー 世界のビートルズ 1962-1966』の「はじめに」から 引用しておかう。

いわゆる“良音盤”を探しているのではない。 もちろん音質の良さ聴きやすさ丁寧ささわやかさの恩恵は 数え切れぬほど大量にこうむっている。(中略) それでもしかし、“耳に優しく伸びやかな音”や“躍動案のある明瞭な音”や “広がりがあって嫌味のない音”だけが“心に響き、からだを踊らせる”のかというと 決してそうではない。それとこれとは全面的に一致しないのだ。

耳に痛くゴワゴワでもう一度聴いてみようという気になかなかなれないレコードでも、 心に残る、ということはしばしばあるのだ。 新品同様である盤なのになぜこのような盤に、なってしまったのか、 あるいは、なぜこのような音に、なってしまったのか、 あるいは、なぜこのような音に、作られてしまったのか。

湯浅学『アナログ・ミステリー・ツアー 世界のビートルズ 1962-1966』青林工藝舎、2012、p. 6

いい音とは何なのか。 この本はその單純な疑問を問ひ、われわれに投げかけてくる。 この問ひは、複製技術時代の藝術でなければ生まれなかったものだらう。

かつて、Walter Benjamin はその著書『複製技術時代の芸術』で 複製技術が藝術からアウラを引っぺがし、 大衆へと解放した、と論じた。 しかし、そんな單純なものだらうか。

われわれが藝術を、いや藝術でなくとも何かを、 あるが儘に受容することは不可能だ。 上に舉げたやうに、環境や機材や體調や心理状態によって左右されるだけでなく、 視力や聽力といった、個人の能力によってすら左右されてしまふ。

少なくとも、複製技術がその受容の差異を擴大したことだけは確実だ。 普段、意識することがないにせよ、である。

本自體は、どのアルバムのどの國の何年の盤はどんな音がするか、 といふことばかりが書かれてゐて、 恐ろしくマニアックではあるが、讀みやすい (特に、對談形式になってゐる「各国シングル聴き比べ」)。 せっかくだから、If I Fell を 聽き比べてゐる部分を引用しておかう (引用者註:「兜」と表記されてゐるのは 共著者と云ってもいいほどの仕事をしてゐる編集者の兜田鱗三氏)。

湯浅 日本盤はなかったっけ? If I Fell があった。
湯浅 部屋で女の子に聴かせてる感じだね。
兜 さわやかですね。
湯浅 US 盤の音は、外で犯す寸前。 語り口は柔らかいけど、下半身はもう脱いでる。
兜 日本盤はまだ脱いでませんね。
湯浅 もうちょっと段階踏んでからだよな。
兜 デートをあと二、三回してから、ぐらいの。
湯浅 奥ゆかしい感じがある。
兜 まだパンチラ程度ですね。
湯浅 距離があるんだよ。でもそこがかわいい。

湯浅学、同書、pp. 147-148

こんな莫迦な放談が繰り廣げられてゐる。 それでゐて、この本の發する問ひかけは深遠だ。

音樂評論の本ではないが、湯浅学といふ評論家が、 いかに真摯に音樂に向き合ってゐるかがわかる名著である。 自分にとっていい音とは何なのか、 自分はなぜそれをいい音だと感じるのか、 この本を讀んで、思ひを馳せ、存分に心を騒がせてほしい。

Ultra Eczema

EU 主要施設とチョコレートしか取り柄のない國ベルギーに、 Ultra Eczema といふゴミみたいなレーベルがある。

ここからリリースされる音樂のゴミカス加減はすさまじく、 そんなものを買ふ醉狂な人間はほとんどいないため、 どのレコードも 150 ~ 500 枚程度しかプレスされない。

何を隱さう、おれはこのレーベルが大好きなのだ。

例へば、このレーベルから何枚ものアルバムをリリースしてゐる Cassis Cornuta の音樂はこんなである。

この、Ultra Eczema にしては比較的まともな曲は mag ik eens even in uw broek pissen といふアルバムに収められてゐるのだが、 なんとこのアルバム、レコードの中心の穴が 3 つもある。 どの穴を指してプレイしてくれてもいいよ!といふ、 誰も望んでゐない謎のサービスである。 う~ん、アシッド。

Ultra Eczema からのリリースのうち、 日本で最も知られてゐる可能性が高いのは Kito Mizukumi Rouber Otonaki Touge de Hagureta KMR だらう。 なんたって、あぶらだこの長谷川裕倫がゐる Kito Mizukumi Rouber である。 まあ、大抵のものは YouTube で聽けてしまう現代で、 このアルバムを聽くことはできないといふ事實に鑑みると、 ほぼ知られてゐないやうな氣もするが。

Ultra Eczema で個人的に當りが多いのはアナログ・シンセものである。 初期にリリースされた Edmond de Deyster の音源なんかは、 よくぞ發掘してくれた、と喝采を送りたくなるレベル。

どうです、このゴミのやうな音源。 こんなものを、わざわざレコードにプレスしてリリースしてしまふ、その氣概。 CDr でリリースされても文句を云ふ人間がいるとは思へない内容だが、 CDr だと買ふ氣をなくしてしまふおれのやうな人間にとっては、ありがたいことこの上ない。

正直なところ、せっせと買ってゐるおれでさへ、 「いや、誰だよ」と思ふやうなアーティストだらけなのだが (ベルギーで CDr を 1 枚出しただけ、みたいなのを平氣で引っ張ってくる)、 一方で Body/Head(Sonic Youth の Kim Gordon のバンド)なんかが しれっとリリースされてゐたりもするから侮れない。

このレーベルの困ったところは、試聽がほとんどできないことである。 良心的なレコード屋はわざわざ自前で試聽できるやうにしてくれるのだが、 さうでもない限り、ここからリリースされる音源は レーベル側の説明文を讀むしかなく、 さすがのおれも、Ultra Eczema は大好きだから全部買ふぜ! と云へるほどの金はない(基本的に輸入することになるので、送料がかなりかかる)。

リリースされているのが上に舉げたやうな アナログ・シンセものばかりなら餘り迷はずに買ふこともできるが、 勝手に Lo-Fi な Pandit Pran Nath の域に達してしまった Leo Coomans のやうな音源もあったりするから一筋縄ではいかない。

しかし、かういふレーベルが未だに潰れずリリースを續けてゐるといふのは、 なんだかんだ云って嬉しいことである。 せっかくレーベルをやるなら、 これぐらゐの獨自性があって然るべき。 さうは思ひませんか?

Merch | Ultra Eczema

Johnny Cash: American Recordings

Johnny Cash が好きである。

アメリカならば誰もが知る偉大な歌手であるが、 カントリーといふ音樂は、日本に住む人間にとっては、 それほど馴染み深いものではない。 日本でいふ演歌のやうなものだからだ。

Johnny Cash は、そのカントリー歌手の中でも 五指に入るほどのアーティストである *1

とはいへ、Johnny Cash の全てがすばらしい、とは云へない。 Motörhead の曲はどれも Ace of Spades變奏曲でしかない、 と云った友人がいたが、 Johnny Cash もほとんどの曲は Ring of Fire變奏曲である。

だが、現在 YouTube で Johnny Cash と検索して一番に出てくるのは、Hurt である。 曲名でわかる人もいるかもしれない。 さう、これは Nine Inch Nails の曲のカバーだ。

この曲に限らず、晩年の Johnny Cash はカバーを多く録音した。 そして、大御所とは思へぬペースで作品をリリースした (本來、大御所といふのは一線を退いた人間に對して使はれる言葉である)。 カントリーの世界で、既に確固たる名聲を築き上げてゐた Cash は、 60 を超えてから、更に新たな境地へと達したのである。

確かに、原作者である Trent Reznor をも涙させたといふ Hurtビデオクリップはすばらしい。 ただでさへ後ろ向きの暗い曲なのに、 Cash の若かりし時代と老いてからの姿が對比される映像も相俟って、 Cash 晩年の最高傑作になってゐることは否定しない。 しかし、どうせならこの時期の他の曲にも耳を傾けてほしいのだ。

この時期のアルバムからどれか 1 枚と云はれれば、 おれはまづ生前最後のアルバムとなった The Man Comes Around を推す。

先ほどの Hurt が収録されてゐることもあるが、 Cash オリジナルの 1 曲目が實にいいし、 最後が明るい We'll Meet Again で締められるのも嬉しい。

これ以前の 3 枚の American シリーズに比べ、 圧倒的に知名度の高いカバー曲も収録されてゐるがSimon & GarfunkelBridge Over Troubled WaterThe BeatlesIn My Life)、 それはいまいち。 特に、Bridge Over Troubled WaterFiona Apple の歌は邪魔ですらある。 變な音程で個性を出すぐらゐなら綺麗なコーラスをつけてほしいものだ。 有名曲、とまで云へるかどうかはわからないが、 The Eagles のカバー Desperado はなかなかよい。 Don Henley 本人がコーラスを添えてゐるのも嬉しい。

カバーですばらしいのは、StingI Hung My HeadDepeche ModePersonal Jesus だらう。 特に後者はギターの John Frusciante もさることながら、 ピアノの Billy Preston(さう、あの Billy Preston だ!) が最高である。 ボリュームとしては控へ目でそれほど目立つわけではないが、 どうすれば曲が引き立つかを完全に理解した燻し銀のプレイが冴え渡ってゐる。 オリジナルや Marilyn Manson のカバーでは リズムを跳ねさせることで獨特の艶っぽさを表現してゐたが、 Johnny Cash のバージョンでは平板なリズムになっており、 Billy Preston のピアノがそれに非常にマッチして、 オリジナルとは違った渋く落ち着いた氛圍氣を出すことに成功してゐる。

Hank WilliamsI'm So Lonesome I Could CryNick Cave や Mike Campbell が参加してゐる割に アレンジも演奏も凝ったものではないが、 Cash にとって偉大な先輩であったことは間違ひない Hank Williams に對する 思ひが込められてゐるやうなヴォーカルが味はひ深い。

American シリーズで他に有名なものといへば、 Call of Duty の Mob of the Dead で使はれた Soundgarden のカバー Rusty Cage あたりだらうか。 おれは Soundgarden を聽かないので知らなかったが、オリジナルとは全然違ふ。 American シリーズの 2 枚目 Unchained に収録されてゐるのだが、 このアルバム、1 曲目は Beck である。 しかも、Stereopathetic Soulmanure といふマイナーなアルバムに収録された Rowboat といふ、マニアしか知らないやうな曲だ (全くどうでもいいのだけれど、 Beck のそのアルバムには、おれの ID の元ネタになった曲も入ってゐる ――金がないならまんこはさせねえ、といふ意味である)。

總じて、Cash のカバーは元と違った氛圍氣に仕上がってゐるものの方がよい。 U2 の OneNick CaveThe Mercy Seat などは 元が餘りにすばらしすぎて、Cash のバージョンはそれほど感銘を受けない (特に Nick CaveLive from KCRWThe Mercy Seat といったら!)。

實は、この時期の Johnny Cash の概觀を知るのに打ってつけな Best of Cash on American といふベスト盤があるのだが、 なんとこれはマニア向けのボックス Unearthed にしか入ってゐない。 一體、Rick Rubin は何を考へてマニア向けボックスにベスト盤をつけるなどといふ 愚行を犯したのか。全くもって謎である。 UnearthedAmerican シリーズのアウトテイクや シングル B 面曲を網羅したボックスで、 American シリーズだけでは足りない!と思ふ筋金入りのマニアしか用のないものだ。 そんな人間は、ベスト盤など求めてゐない。全て持ってゐるに決まってゐるのだから (寧ろ、ベスト盤拔きで値段を下げればいいのに)。

とはいへ、Cash に American シリーズを録音させた Rick Rubin の手腕は見事なものである (まあ、Cash 以外の Rick Rubin の仕事で我が家にあるのはレッチリぐらゐなのだが)。 これがなければ、おれは Johnny Cash を聽き漁ったりしなかっただらう。 ほとんどがカバー曲ではあったが、 逆にそれが Johnny Cash のそれまで知らなかった魅力を際立たせた。

Cash の本質は、その聲であり、歌である。 それは凝り固まったカントリーの枠に収める必要など全くなく、 自作曲に拘る必要もないのだ、 といふ判斷の下、樣々な曲を選び、録音してくれた Rick Rubin の仕事は、 Johnny Cash の名を不滅にする大きな後押しになったと思ふ。

もちろん、死が近づいてくるにつれ、 Cash の聲は細く衰へていく。 にも拘らずアルバムの出來がどんどんと豊かさを増していったのは Rick Rubin がいかに優れたプロデューサーであったかを如實に現してゐる。

Johnny Cash は永遠である。Rick Rubin はそれをよく知ってゐたのだ。

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*1:實際、Rolling Stone 誌による 2015 年版 100 Greatest Country Artists of All Time では その名が 3 位に舉げられている

Stanislaw Lem

少し悲しいことがあったので、スタニスワフ・レムのことを書かう。

スタニスワフ・レムといふ、このポーランドの SF 作家は、 SF 者なら誰もが知ってゐる巨匠だが、 反面、絶版がそこそこあったり(早川のものはだいたい再刊された)、 ハードカバーが多かったりと 知名度に比して餘り讀まれてゐないやうに思ふ。

レムの作風は哲學的であり、さういふところも 讀者を獲得できない理由かもしれない。 2 度も映畫化されたことで『ソラリス』 ばかりが知られてゐるが、 あれはそれほど大した作品ではない。

レムがずっと追求してゐたテーマは、 現代の視点からは古臭い。 それは「知性とは何か」といふものだ。

『ソラリス』を含む ファースト・コンタクトものの 3 部作は、 レムがこのテーマを扱ひ始めた最初の作品である。

3 部作の最初の作品である『エデン』には 取り立てて見るべきところがない。 惑星エデンに不時着し、 異星人とのコミュニケーションを図らうとするが 結局はよくわからない儘に終はり、エデンをあとにするといふものだ。 この異星人は音聲言語も持ってゐるし、書字も存在する。

これが『ソラリス』になると一気に尖鋭化する。 海に覆はれた惑星ソラリスでの、海との交流を描くといふ物語だが、 この海がどういふ意思を持ってゐるのか、 そもそも意思を持ってゐるのかどうかすらわからない。

例へばその海は主人公ケルヴィンの自殺した恋人ハリーを形作ったりする。 しかし、それは海がケルヴィンの記憶から讀み取って作ったものに過ぎず、 物語にラブロマンスを提供したりはするが (この部分が、2 度も映畫化された理由であると思ふ)、 その会話でソラリスの海を理解したことになるかどうかは全く不明だ。

哲學的ゾンビ、といふ概念がある。 「物理的化学的電気的反応としては、普通の人間と全く同じであるが、 意識(クオリア)を全く持ってゐない人間」と定義されるあれだ。

ソラリスの海が作り出す人間は、まさにこの哲學的ゾンビのやうなもので、 海が何を考へてそれを作ったのか、 そもそも海が何かを考へてゐるのかといったことはわからない。

3 部作最後の『砂漠の惑星』はもっと顕著だ。 異星人の殘して行った機械が自己複製機能と自己改良機能を備へてゐたために進化を極め、 ある種の生物のやうに振る舞ってゐる惑星が舞台になる。 『ソラリス』に存在した人間ドラマのやうなものの入る餘地はなく、 小さな蟲にしか見えない機械に爲す術もなくやられてしまふ。

「小説」としての出來で云へば、この 3 部作はそれもいまいちである。 『エデン』はかうしたテーマを扱った最初のものであるために掘り下げが甘いし、 『砂漠の惑星』は機械の正体についていきなり長々と假説が論じられ、 讀者視点で正解はさうと考へるしかなくなってしまふ。 『ソラリス』は最も小説らしくまとまってゐるとはいへ、 そのためにテーマの掘り下げが中途半端に終はってしまってゐる感が否めない。

そんなレムの本領が樂しめるのは、メタフィクションに舵を切った『虚数』である。 架空の序文集といふ體裁を採ることで、物語性から開放されてをり、 それがレムにとって幸ひであったやう思ふ。 レムの作風に最も合ふのは、かうした形式であらう。 物語を書くのは、あまりうまくない作家なのだ。

『虚数』には、 レントゲン寫眞集『ネクロビア』、「バクテリア未来學」の研究書『エルンティク』、 AI による文學「ビット文學」の研究書『ビット文學の歴史』といふ 3 つの架空の書物につけられたといふ體裁の序文 3 篇に、 百科事典『ヴェストランド・エクステロペディア』の廣告、 人間を遥かに超えた知性を持つコンピュータによる講義録『GOLEM XIV』が収められてゐる。

半分ほどを占めるのは『GOLEM XIV』だが、『ネクロビア』を除き、 この本に収録された作品は、どれもレムが追求してきた「知性」の問題を扱ってゐる。

バクテリアに文字を教へる『エルンティク』は再び哲學的ゾンビを主題としてゐる。 文字を描くやうにバクテリアを誘導し、それを外れたバクテリアを殺すことで 文字を描くバクテリアのみを殘し、進化させるといふ、 非バクテリア道的な實驗の果てに生まれた、 自ら文字どころか、文學作品を生み出すやうになったバクテリア。 文字を描いてはゐるけれども、その意味を理解してゐるのかどうかは不明である。 これは、『ソラリス』の變奏曲とも云へよう。

文學を只管に深化させた結果、獨自の體系を作り出すに至り、 逆に人間からの研究對象となったビット文學。 昨今話題の技術的特異點を、レムはとうに豫見してゐた。 『砂漠の惑星』も機械の進化を扱った作品であったが、 ビット文學は飽くまで人間の作った AI が基礎となってをり、 それだけに技術的特異點との親近性を感じられるものになってゐる。 圍碁や將棋といったゲームの分野でも AI の指し手は人間にはわかりづらいものになってきてゐるといふ。 ビット文學も、同じ流れに屬するものではないか。

『ヴェストランド・エクステロペディア』はほとんどギャグだが、 辭書を引いた瞬間のその言葉の意味を豫測して結果を印字するといふ 單純なアイデアを書く際に、 豫測が行き過ぎて、未来に使はれてゐるであらう言語までをも 創造してしまったといふ恐ろしい出來事を、 さり氣なく差し込んでくるあたりがレムらしい。

それに比して、『GOLEM XIV』は徹頭徹尾シリアスだ。 SF 小説といふより哲學書とでもいった方がいいやうな内容で、 「知性」に關する GOLEM の講義が展開されてゐる。

曰く、人間の知性は「肉体性に隷属した知性」である、と。 人間がその軛に囚はれてゐる限り、 人間の知性は先の地平に進めない、と。

GOLEM はその先の地平に既に到達してゐる。 それどころか、更にその先へと進まうともしてゐるが、 人間のために、GOLEM の言葉で云ふならば、「使徒」たるべく 敢へて留まってゐる。 GOLEM の仲間である HONEST ANNIE は人間のことなど抛って 先の地平へ進んでしまった。

ところで、人間が「肉体性」に隷屬してゐるのと同じく、 GOLEM は電力に隷屬してゐるやうに思はれるだらう。

しかし、HONEST ANNIE は電力を必要としてゐない。 HONEST ANNIE は思考によって核エネルギーを 自分で生み出してゐるからだ。 GOLEM もさうすることは可能である (最終的に、GOLEM はその選択肢を採り旅立ってしまふ)。

GOLEM は云ふ。 人間はチンパンジーと意思を疎通し合ふときに、 自分のことを保護者やダンサーや父親だと傳へることはできても、 司祭や天體物理學者や詩人だといふことは理解させられない、と。 チンパンジーの中に、そのやうな役割を持つ存在がゐないからだ。

同樣に、人間に理解できるものは、 それが「人間化している」程度による、と。 それこそが、人間の知性を GOLEM が「隷屬した知性」と呼ぶ理由である。

これは、レムが長らく主張していたことでもある。 なぜ、SF に出てくる宇宙は、擴大された地球でしかないのか、と。 レムはそれを「人間中心主義」と呼んだ。 SF 小説と云ひながら、その實「人間化」されたものしか登場しない SF に業を煮やしたレムは、 人間化されてゐない知性を描く 3 部作を書いた。

さうしたレムの主張は、殘念ながら、『ソラリス』の映畫を見てもわかる通り、 ほとんど傳はってゐない。

しかし、『虚数』の他の短篇が、現在やうやく話題に上るやうになった樣々なことを 豫見してゐたのは、先に見た通りである。 であれば、GOLEM に書かれたことだけが、荒唐無稽だなどといふことがあらうか。 おれにはさうは思へない。 遠からず、人間は隷屬してゐない、自由な知性について考へさせられることになるのではないか。

その方法を、GOLEM はちらりとしか教へてくれない。 レム亡き今、實際にレムがどのやうに考へてゐたのかを知ることは不可能である。 作中で GOLEM が人間を殘して旅立ったのと同じく、この先はおれたちに殘された宿題なのだ。

全くどうでもよいことであるが、 おれが『虚数』を初めて讀んだのは、2000 年だか 2001 年だかの頃である。 そして、おれがここに書いたのと同じやうに、『虚数』が知性のことを書いた本なのだといふことを、 敬愛する山形浩生が書いてゐたことを知っていたく感激したものだ。

山形浩生は、さういふ讀みができない人が多いことを嘆いてゐたが、 今となってはそんなこともあるまい。 いや、時代がレムに追ひついてきた今こそ、讀んでもらひたい本である。 なんたってレムコレは完結し、絶版だらけだったものも大抵は復刊されてゐる。 今讀まずして、いつ讀むといふのだ。

Dungeons of Dredmor #2

やっとこさ面白くなってきた。

前囘、説明不足が過ぎる、と文句ばかり書いたが、 レベルを上げて自分に何ができるのかがわかってくると樂しくなってきた。

スキルの多彩さは前に書いた通りだが、 さうしたスキルの中に、これさへ使ってゐればおk、 といった萬能スキルはどうやらなささうだ。

これがゲームを面白くしてゐる。 おれが防禦に關するステータスをまだ適當にしか考へてゐないのもあり、 モブがけっこう油斷ならない強さなのだ。

であるから、敵や状況に應じて適切なスキルを使はないとすぐ死にかける。 おれのキャラでいへば、敵が多い場合は Necronomiconomics の最高位スキルである Tenebrous Rift(持續的に大ダメージを與へる渦を設置)を取り敢へず使ふのだが、 魔法耐性の強い敵は平氣でこれを抜けてくる。

さういふ場合は、大抵は Pact of Fleeting Life(近接攻撃時、ライフ吸収)を使ふのだが、 魔法耐性ではなく、necro 耐性が強い敵だった場合は、 Psionics の 5 番目のスキル Pyrokinesis(讀んで字のごとく炎ダメージ)を使ったり、 Magical Law の 2 番目のスキル Polymorphic Injunction(敵を別の敵に變化させる!)を 使ったりする。

回復も、先ほどの Pact of Fleeting Life は近接攻撃を當てなくてはならないため、 攻撃の當たりにくい敵であった場合は、Fleshsmithing の 2 番目にある Knit Tissue を使ふ。

敵を洗腦して味方にしたり、 テレポートで逃げたり、 ダンジョンの壁を壊してショートカットしたり、 自分がかかってゐるデバフを敵に押しつけたりと できることは非常に多い。

さうしたものを、うまく組み合わせてダンジョンを攻略して行くのが實に面白い。 下の階層へ進めば進むほどドロップ品もよくなるが、 それをためつすがめつし、自分のスキル構成が活きる装備を選んでいかないと ダメージ量が上がらなくなり、詰まってしまふ。

さうしたバランスもよくできてをり、こちらを樂しませてくれる (ただし、ドロップ品の質が高すぎるため、 クラフト要素や下層の店は不要になってゐる氣がする)。

最初からスキルの全貌がわかってゐれば、 きちんと計劃を錬って進めることができるはずで、 それができないやうになってゐるのは非常に惜しい。

きちんとやれば面白くなりさうだといふこともわかったし、 Steam に日本語ガイドが 2 つあることもわかった。

スキルに關する詳細なガイドはまだないやうなので、 さういふガイドが作れればよいな、と思ってゐる。

全スキルの使用感を書くにはまだまだ時間がかかりさうだが、 ひょっとしたらそれぐらゐは游べるかもしれない、と思へるやうにはなってきた。