When the Music's Over

音樂の話とゲームの話

Stanislaw Lem

少し悲しいことがあったので、スタニスワフ・レムのことを書かう。

スタニスワフ・レムといふ、このポーランドの SF 作家は、 SF 者なら誰もが知ってゐる巨匠だが、 反面、絶版がそこそこあったり(早川のものはだいたい再刊された)、 ハードカバーが多かったりと 知名度に比して餘り讀まれてゐないやうに思ふ。

レムの作風は哲學的であり、さういふところも 讀者を獲得できない理由かもしれない。 2 度も映畫化されたことで『ソラリス』 ばかりが知られてゐるが、 あれはそれほど大した作品ではない。

レムがずっと追求してゐたテーマは、 現代の視点からは古臭い。 それは「知性とは何か」といふものだ。

『ソラリス』を含む ファースト・コンタクトものの 3 部作は、 レムがこのテーマを扱ひ始めた最初の作品である。

3 部作の最初の作品である『エデン』には 取り立てて見るべきところがない。 惑星エデンに不時着し、 異星人とのコミュニケーションを図らうとするが 結局はよくわからない儘に終はり、エデンをあとにするといふものだ。 この異星人は音聲言語も持ってゐるし、書字も存在する。

これが『ソラリス』になると一気に尖鋭化する。 海に覆はれた惑星ソラリスでの、海との交流を描くといふ物語だが、 この海がどういふ意思を持ってゐるのか、 そもそも意思を持ってゐるのかどうかすらわからない。

例へばその海は主人公ケルヴィンの自殺した恋人ハリーを形作ったりする。 しかし、それは海がケルヴィンの記憶から讀み取って作ったものに過ぎず、 物語にラブロマンスを提供したりはするが (この部分が、2 度も映畫化された理由であると思ふ)、 その会話でソラリスの海を理解したことになるかどうかは全く不明だ。

哲學的ゾンビ、といふ概念がある。 「物理的化学的電気的反応としては、普通の人間と全く同じであるが、 意識(クオリア)を全く持ってゐない人間」と定義されるあれだ。

ソラリスの海が作り出す人間は、まさにこの哲學的ゾンビのやうなもので、 海が何を考へてそれを作ったのか、 そもそも海が何かを考へてゐるのかといったことはわからない。

3 部作最後の『砂漠の惑星』はもっと顕著だ。 異星人の殘して行った機械が自己複製機能と自己改良機能を備へてゐたために進化を極め、 ある種の生物のやうに振る舞ってゐる惑星が舞台になる。 『ソラリス』に存在した人間ドラマのやうなものの入る餘地はなく、 小さな蟲にしか見えない機械に爲す術もなくやられてしまふ。

「小説」としての出來で云へば、この 3 部作はそれもいまいちである。 『エデン』はかうしたテーマを扱った最初のものであるために掘り下げが甘いし、 『砂漠の惑星』は機械の正体についていきなり長々と假説が論じられ、 讀者視点で正解はさうと考へるしかなくなってしまふ。 『ソラリス』は最も小説らしくまとまってゐるとはいへ、 そのためにテーマの掘り下げが中途半端に終はってしまってゐる感が否めない。

そんなレムの本領が樂しめるのは、メタフィクションに舵を切った『虚数』である。 架空の序文集といふ體裁を採ることで、物語性から開放されてをり、 それがレムにとって幸ひであったやう思ふ。 レムの作風に最も合ふのは、かうした形式であらう。 物語を書くのは、あまりうまくない作家なのだ。

『虚数』には、 レントゲン寫眞集『ネクロビア』、「バクテリア未来學」の研究書『エルンティク』、 AI による文學「ビット文學」の研究書『ビット文學の歴史』といふ 3 つの架空の書物につけられたといふ體裁の序文 3 篇に、 百科事典『ヴェストランド・エクステロペディア』の廣告、 人間を遥かに超えた知性を持つコンピュータによる講義録『GOLEM XIV』が収められてゐる。

半分ほどを占めるのは『GOLEM XIV』だが、『ネクロビア』を除き、 この本に収録された作品は、どれもレムが追求してきた「知性」の問題を扱ってゐる。

バクテリアに文字を教へる『エルンティク』は再び哲學的ゾンビを主題としてゐる。 文字を描くやうにバクテリアを誘導し、それを外れたバクテリアを殺すことで 文字を描くバクテリアのみを殘し、進化させるといふ、 非バクテリア道的な實驗の果てに生まれた、 自ら文字どころか、文學作品を生み出すやうになったバクテリア。 文字を描いてはゐるけれども、その意味を理解してゐるのかどうかは不明である。 これは、『ソラリス』の變奏曲とも云へよう。

文學を只管に深化させた結果、獨自の體系を作り出すに至り、 逆に人間からの研究對象となったビット文學。 昨今話題の技術的特異點を、レムはとうに豫見してゐた。 『砂漠の惑星』も機械の進化を扱った作品であったが、 ビット文學は飽くまで人間の作った AI が基礎となってをり、 それだけに技術的特異點との親近性を感じられるものになってゐる。 圍碁や將棋といったゲームの分野でも AI の指し手は人間にはわかりづらいものになってきてゐるといふ。 ビット文學も、同じ流れに屬するものではないか。

『ヴェストランド・エクステロペディア』はほとんどギャグだが、 辭書を引いた瞬間のその言葉の意味を豫測して結果を印字するといふ 單純なアイデアを書く際に、 豫測が行き過ぎて、未来に使はれてゐるであらう言語までをも 創造してしまったといふ恐ろしい出來事を、 さり氣なく差し込んでくるあたりがレムらしい。

それに比して、『GOLEM XIV』は徹頭徹尾シリアスだ。 SF 小説といふより哲學書とでもいった方がいいやうな内容で、 「知性」に關する GOLEM の講義が展開されてゐる。

曰く、人間の知性は「肉体性に隷属した知性」である、と。 人間がその軛に囚はれてゐる限り、 人間の知性は先の地平に進めない、と。

GOLEM はその先の地平に既に到達してゐる。 それどころか、更にその先へと進まうともしてゐるが、 人間のために、GOLEM の言葉で云ふならば、「使徒」たるべく 敢へて留まってゐる。 GOLEM の仲間である HONEST ANNIE は人間のことなど抛って 先の地平へ進んでしまった。

ところで、人間が「肉体性」に隷屬してゐるのと同じく、 GOLEM は電力に隷屬してゐるやうに思はれるだらう。

しかし、HONEST ANNIE は電力を必要としてゐない。 HONEST ANNIE は思考によって核エネルギーを 自分で生み出してゐるからだ。 GOLEM もさうすることは可能である (最終的に、GOLEM はその選択肢を採り旅立ってしまふ)。

GOLEM は云ふ。 人間はチンパンジーと意思を疎通し合ふときに、 自分のことを保護者やダンサーや父親だと傳へることはできても、 司祭や天體物理學者や詩人だといふことは理解させられない、と。 チンパンジーの中に、そのやうな役割を持つ存在がゐないからだ。

同樣に、人間に理解できるものは、 それが「人間化している」程度による、と。 それこそが、人間の知性を GOLEM が「隷屬した知性」と呼ぶ理由である。

これは、レムが長らく主張していたことでもある。 なぜ、SF に出てくる宇宙は、擴大された地球でしかないのか、と。 レムはそれを「人間中心主義」と呼んだ。 SF 小説と云ひながら、その實「人間化」されたものしか登場しない SF に業を煮やしたレムは、 人間化されてゐない知性を描く 3 部作を書いた。

さうしたレムの主張は、殘念ながら、『ソラリス』の映畫を見てもわかる通り、 ほとんど傳はってゐない。

しかし、『虚数』の他の短篇が、現在やうやく話題に上るやうになった樣々なことを 豫見してゐたのは、先に見た通りである。 であれば、GOLEM に書かれたことだけが、荒唐無稽だなどといふことがあらうか。 おれにはさうは思へない。 遠からず、人間は隷屬してゐない、自由な知性について考へさせられることになるのではないか。

その方法を、GOLEM はちらりとしか教へてくれない。 レム亡き今、實際にレムがどのやうに考へてゐたのかを知ることは不可能である。 作中で GOLEM が人間を殘して旅立ったのと同じく、この先はおれたちに殘された宿題なのだ。

全くどうでもよいことであるが、 おれが『虚数』を初めて讀んだのは、2000 年だか 2001 年だかの頃である。 そして、おれがここに書いたのと同じやうに、『虚数』が知性のことを書いた本なのだといふことを、 敬愛する山形浩生が書いてゐたことを知っていたく感激したものだ。

山形浩生は、さういふ讀みができない人が多いことを嘆いてゐたが、 今となってはそんなこともあるまい。 いや、時代がレムに追ひついてきた今こそ、讀んでもらひたい本である。 なんたってレムコレは完結し、絶版だらけだったものも大抵は復刊されてゐる。 今讀まずして、いつ讀むといふのだ。