When the Music's Over

音樂の話とゲームの話

Yuasa Manabu: Analog Mystery Tour

おれがここに書き散らしてゐる文章は、 たんぽぽコーヒーのやうなものである。 コーヒーを淹れたいと切望してゐるのに豆がない。 しかしコーヒーを淹れたいといふ欲求が 抑え切れないので、仕方なくたんぽぽで作ってゐるのだ。

何の話といふと、音樂批評あるいは音樂評論のことだ。 おれは自分が書いてゐるものを批評や評論であると 思ったことはない。

なぜか。

それは、おれが批評や評論といったものに、 理由を求めてをり、 それが欠如してゐるものを批評や評論として認めてゐないからである。

批評および評論といふものは、 「評」といふ字を含むことからもわかる通り、 對象の價値を評價するものだ。

しかし、ただあれがいいこれがいい、それが惡いどこが惡い などといふだけでは、感想文に等しい。 評論といふからには、「なぜそれがよいのか」「なぜこれではだめなのか」 そういったことを、きちんと論じてほしいのである。

悲しいかな、音樂批評や音樂評論とされる文章に、 そんなものが存在してゐたことはない。 屁理屈がついてゐるものはあるが、屁理屈の域を出たものは見たことがない。

もちろん、好みといふ大きな壁があるから、 何も萬人を納得させる理由を常に提示しろ、とまでは云はない。 しかし、「なぜその曲をすばらしいと感じるのか」といふことに 真摯に向き合ってゐる評論ですら、滅多にお目にかかれない。

觀念的な話をしてゐるのではない。 音樂とは結局、響きである。 社會的、文化的、歴史的、思想的なものが全くないとは云はないが、 さうしたものは飽くまで周辺情報でしかない。

われわれが今、Celibidache の Nutcracker Suite を聽く際に、 いちいち Celibidache や Tchaikocsky の歴史的立ち位置を氣にかけて音樂を聽くだらうか。 その音樂がなぜ生まれたのか、といふことを考へる上では、 さうした社會的文化的歴史的思想的なものに目を配るのも重要だ。 しかし、その音樂をなぜ好ましく感じるのか、といふ點を考へるのに必要といふわけではあるまい。

例へば、The Beatles。 世界中の多くの人々が知る音樂である。 では、The Beatles の曲は、なぜそんなにすばらしく響くのか。 なぜ人の心を打つのか。

さうしたことをきちんと論証してゐる批評や評論を、 おれは見たことがない。 しかし、おれが知りたいのはそこなのだ。

假にそれが可能になったからといって、 誰もが The Beatles になれるといふわけではない。 料理の作り方がわかるからといって、 プロと同じ味は出せまい。 だが、作り方ぐらゐは知っておきたい。 さう望むのは、自然なことではないか?

樂譜の話をしてゐるわけではない。 どのやうな音の連なりが、響きが、組み合わせが、音色が 人間の心にどういった作用を及ぼすのか、 さういったことが知りたいのだ。 それが批評の、評論の仕事であらう。

なのに、音樂評論と呼ばれるものは、 さうした試みをほとんどしてゐない、 否、しようとすらしてゐないやうに思へる。 おれが知らないだけかもしれないが、 さうしたことに自覺的なのは菊地成孔ぐらゐのものである (菊地成孔は音楽評論が本業ではないのに!)。

だから、おれは音樂評論といふものをほとんど信用してゐない。

そんなおれが愛讀する、數少ない音樂評論を書いてゐるのが湯浅学だ。

菊地成孔が極めて理論的に音樂のよさについて迫らうとするのに対して、 湯浅学は、全く非論理的に音樂のよさを描く。

おれは音樂のよさといふものは全部ではないにせよ理論的に説明が可能なのではないか、 といふ希望を持ってゐる。 これは、かなり樂觀的かつナイーヴな希望だ。

一方で、音樂には説明不能な部分がどうしてもある、と思ってもゐる。 音樂のよさは、個々人の好みや時代などに大きく左右されるからだ。

湯浅学は、さうした音樂の「わからない部分」を わからないなりに描き出さうとしてゐる評論家だと思ふ。 だから、湯浅学の評論に論理はない。 論理のないところを、ああでもないかうでもないと彷徨ひ、 その彷徨った樣を見せてくれる、稀有な評論家なのだ。

この『アナログ・ミステリー・ツアー』といふ本は、 その湯浅学が出した、評論ではない本である。

内容は極めて單純で、The Beatles の各国盤レコードをひたすらに 聽き比べる、といふものだ。

ところで、音樂にまつはることの一つで、 批評をほとんど免れてゐるものがある。 音質だ。

一般的に、音樂は「いい音」で聽くことがよしとされてゐる。 であるからこそオーディオマニアと呼ばれる人種が存在するのだし、 リマスターやハイレゾといったものが求められる。

この本は、さうした無邪気な思ひ込みを崩壊させる。

レコードは、最初からレコードとして存在してゐるわけではない。 マスターテープと呼ばれるテープが存在し、 それをプレスできる形に落とし込む必要がある。

この本で採りあげられてゐる The Beatles の時代は オープンリールが主流だが、 現在はデジタルデータが多いだらう。

このマスターテープの音が、その儘われわれの元に届くことはない。 レコードでも CD でもハイレゾ音源でも、 メディアに適した形にするために、マスターの音は加工される。 その作業は、マスタリングと呼ばれる。

The Beatles のレコードは、世界中でプレスされてゐる。 當然、その全てが UK でプレスされたなどといふことはなく、 普通はマスターテープのコピーから、 現地で現地プレス用の原盤が作られる。

そのプレス用の原盤を作る際にマスタリング作業が発生するため、 プレス結果であるレコードの音が各国で異なる、といふ事態が発生する。

一部のマニアしか考慮しないその要素を追求しまくったのが、この本である。

最新リマスターだから、本人監修だから、ハイレゾだから、 オリジナルマスターだから。 音樂にうるさい人間なら、さうした文言に心を動かされ、 持ってゐるものを買ひ直したことは一度や二度ではあるまい。

この本は、さうした無批判な「いい音」といふものの牙城を打ち崩す。

われわれが聽いてゐるのは、飽くまで誰か (基本的にはマスタリング・エンジニア)が考へた「いい音」でしかない。 ある音盤が作られる際には、必ずさうした誰かの思想、信條、ポリシーが介入する。 そして、その音ですら、われわれが聽く環境や機材や體調や心理状態によって變化させられてしまふ。 デジタルデータであり同一マスターからのプレスが可能な CD やハイレゾ配信も、 そこからは逃れられない。

上巻である『アナログ・ミステリー・ツアー 世界のビートルズ 1962-1966』の「はじめに」から 引用しておかう。

いわゆる“良音盤”を探しているのではない。 もちろん音質の良さ聴きやすさ丁寧ささわやかさの恩恵は 数え切れぬほど大量にこうむっている。(中略) それでもしかし、“耳に優しく伸びやかな音”や“躍動案のある明瞭な音”や “広がりがあって嫌味のない音”だけが“心に響き、からだを踊らせる”のかというと 決してそうではない。それとこれとは全面的に一致しないのだ。

耳に痛くゴワゴワでもう一度聴いてみようという気になかなかなれないレコードでも、 心に残る、ということはしばしばあるのだ。 新品同様である盤なのになぜこのような盤に、なってしまったのか、 あるいは、なぜこのような音に、なってしまったのか、 あるいは、なぜこのような音に、作られてしまったのか。

湯浅学『アナログ・ミステリー・ツアー 世界のビートルズ 1962-1966』青林工藝舎、2012、p. 6

いい音とは何なのか。 この本はその單純な疑問を問ひ、われわれに投げかけてくる。 この問ひは、複製技術時代の藝術でなければ生まれなかったものだらう。

かつて、Walter Benjamin はその著書『複製技術時代の芸術』で 複製技術が藝術からアウラを引っぺがし、 大衆へと解放した、と論じた。 しかし、そんな單純なものだらうか。

われわれが藝術を、いや藝術でなくとも何かを、 あるが儘に受容することは不可能だ。 上に舉げたやうに、環境や機材や體調や心理状態によって左右されるだけでなく、 視力や聽力といった、個人の能力によってすら左右されてしまふ。

少なくとも、複製技術がその受容の差異を擴大したことだけは確実だ。 普段、意識することがないにせよ、である。

本自體は、どのアルバムのどの國の何年の盤はどんな音がするか、 といふことばかりが書かれてゐて、 恐ろしくマニアックではあるが、讀みやすい (特に、對談形式になってゐる「各国シングル聴き比べ」)。 せっかくだから、If I Fell を 聽き比べてゐる部分を引用しておかう (引用者註:「兜」と表記されてゐるのは 共著者と云ってもいいほどの仕事をしてゐる編集者の兜田鱗三氏)。

湯浅 日本盤はなかったっけ? If I Fell があった。
湯浅 部屋で女の子に聴かせてる感じだね。
兜 さわやかですね。
湯浅 US 盤の音は、外で犯す寸前。 語り口は柔らかいけど、下半身はもう脱いでる。
兜 日本盤はまだ脱いでませんね。
湯浅 もうちょっと段階踏んでからだよな。
兜 デートをあと二、三回してから、ぐらいの。
湯浅 奥ゆかしい感じがある。
兜 まだパンチラ程度ですね。
湯浅 距離があるんだよ。でもそこがかわいい。

湯浅学、同書、pp. 147-148

こんな莫迦な放談が繰り廣げられてゐる。 それでゐて、この本の發する問ひかけは深遠だ。

音樂評論の本ではないが、湯浅学といふ評論家が、 いかに真摯に音樂に向き合ってゐるかがわかる名著である。 自分にとっていい音とは何なのか、 自分はなぜそれをいい音だと感じるのか、 この本を讀んで、思ひを馳せ、存分に心を騒がせてほしい。