音樂を評価する單位の 1 つに「アルバム」がある。 おれなどは自然とその枠組みで話をしてしまふことが多いのだが、 冷静に考へれば、この單位はここ 100 年ほどの間に生まれたものでしかないし、 今後は配信が中心になっていくであらうから、 さう遠くないうちに消滅してしまひかねない。 まあ、配信に適した形態がどんなものかはまだわからないから、 存外ずるずるとアルバムといふ單位は生き殘るのかもしれないが。
さて、このアルバムだが、長さで云へばおおよそ 40 分から 70 分ほどのものが多い。 最短が 40 分ほどのものであるのは、LP レコードの收録時間が兩面でそのぐらゐだったからであり、 70 分を超えるものはレコードで 2 枚組であったか、 あるいは CD 時代のものである。 もちろん、中には CD 複數枚に及ぶ長大なものもある。
CD の收録時間が Beethoven の第 9 が入る程度の長さだとありがたい、 と Karajan が云ったから 74 分になったとはよく聞く話だが、 交響曲が 1 時間を超えるやうになったのは Beethoven の頃からであり、 例へば Mozart の交響曲は長くて 40 分程度しかない。
似たやうな長さを持つ交響曲とアルバムだが、 ご存知の通り、多くのアルバムは交響曲のやうに 1 曲で構成されてゐるわけではなく、 ポピュラー音樂であれば、まあ 10 ~ 15 曲程度のアルバムが多い(ジャズは演奏が長いのでもう少し少ない)。
面白いのは、それらがバラバラの曲であるにも拘らず、緩やかな、ときには強固なつながりを持ってゐることだ。 曲が作られた時期が近いからといふ單純な理由ももちろんあるだらうが、 作る側も「アルバム」といふ 1 つの單位内で統一性を持たせるのは、自然なことだ (まあ、ソウルのやうにアルバムといふ形式が 70 年代に入るまでほとんど顧みられなかったジャンルもあるが)。
さうしたつながりがあるからこそ、音樂をアルバムで評価するといふことが起こる。 そして、さうしたことが意識されるからこそ、完璧と云ってしまってもいいのではないか、 と感じさせるすばらしいアルバムが生まれる。
そんなことを思はせるアルバムの 1 つが、ゆらゆら帝国の 空洞です だ。
このアルバムのすごさは、例へばゆらゆら帝国が 2010 年に解散した理由を讀めばわかる。
ゆらゆら帝国は完全に出来上がってしまった
なんてことを作った本人たちに感じさせてしまふアルバムなんてものは、さうさうない。
さうさうないのだが、實は同じく日本語に拘ったバンド、はっぴいえんども 2 作目の 風街ろまん を作ったときに同じやうなことを感じ、
結局その所爲で解散してしまってゐる(ゆらゆら帝国とは違ひ、彼らはその後も 1 枚アルバムを出したが、出す前からほぼ解散状態だった)。
ゆらゆら帝国が解散する、およそ 40 年も前の話だ。
こちらもすごいアルバムだが、本題から逸れるので措いておかう。
いつもなら、この邊りで 空洞です から 1 曲 YouTube の動畫を貼るところだが、 敢へて貼らない。 いや、アルバムまるごとアップロードされてたりすればそれを貼るのだが、 殘念ながら YouTube にはタイトルトラックしかない。 アルバムの話をしてるのに、最後の 1 曲だけ聽いてもねえ。 Spotify なら全曲聽けるやうだから、氣になった人はそちらで聽いてほしい。
おれは、ゆらゆら帝国の曲だと初期~中期のものに好きなものが多い。 ノリのいい曲が多いからだ。例へばこれとか。
反面、その後の作品である しびれ や めまい、Sweet Spot はほとんど聽かない。 決して惡いわけではないが、それまでのやうな勢ひがなくなり、その名の通りゆらゆらとした印象になってしまって、 アルバムを通して聽くほどにはのめりこめなかった(唯一、めまい だけは好きな曲が多いのだが、 それでもアルバムまるまるは滅多に聽かない)。
しかし、空洞です は初期~中期の路線に囘歸したアルバムではない。 寧ろ、おれが聽かない 3 枚の路線を更に突き詰めたやうな、ぼんやりとしたアルバムである。
なのに、これが最高なのだ。
アルバム全體を白晝夢のやうな氛圍氣が覆ってゐる。 アルバム 1 曲目は おはようまだやろう といふタイトルだが、 おはやうまだ寢よう の間違ひではないのかと思ふほど、ふわふわとした曲だ。
その後に入ってゐる曲だって、どれもこれもが薄ぼんやりとした、幻のやうな曲ばかりである。 現實感のない、空想のやうな音樂。
なのに、音の粒はどれもはっきりしてゐる。 例へば、坂本慎太郎が明確にコードを彈いてゐるのは、1、9、10 曲目の 3 曲だけで、あとはほぼ單音~ 2 音しか彈いてゐない。 ドラムもすごい。單純な 8 ビートは、最後の 空洞です だけで、 ほかはともすればバンドがバラバラになりかねないものばかりで、 普通なら曲の骨格となるドラムの役割をギリギリでしか果たしてゐない。 The Who の John Entwistle は、その派手なベースラインからリード・ベースと呼ばれることがあるけれども、 このアルバムでの柴田一郎は、派手さこそないものの、リード・ドラムと呼んでもいいやうなドラムを叩いてゐる。
それらをまとめあげて曲の形が保たれてゐるのは一重にベースのお蔭である。
地に足のつかないギターとドラムを、辛うじてつなぎとめてゐるベースがなければ、
聞くに堪えないアルバムができあがったのではないか。
この 3 人でしか表現できない演奏と世界観に到達した
といふ言葉は、決して大袈裟ではない。
これはまさに、この 3 人でしか實現できなかった音樂だらう。
さうやって全體を眺めてみると、最後の 空洞です はアルバムの中で最もわかりやすい曲だと氣づく。 リズムは普通の 8 ビートだし、ギターもコード彈きだ。 だから、あの曲だけを聽いて、空洞です といふアルバムを知ったやうな氣分にならないでほしい。 それが、タイトルトラックだとしてもだ。
音樂なんてものは、人生に不要なものである。 音樂に限らずとも娯樂は世の中に溢れてゐて、 人の短い一生では味はひ盡くせない。 それでも、もしあなたがこの 空洞です を聽いたことがないなら、 このアルバムが、あなたの人生に新たな彩りを加へてくれると、おれは確信してゐる。