When the Music's Over

音樂の話とゲームの話

Bob Dylan: Sad Eyed Lady of the Lowlands

前囘の Bob Dylan の話がえらくあっさりしすぎてゐたので、 もうちょっと何か書かないと Bob Dylan の魅力が傳はらんよなあ、 と思ったのだが、逆に Bob Dylan の魅力を語るのが困難なことに氣づかされてしまった。

例へば、おれが 2 番目に好きな Bob Dylan の曲は Self Portrait に入ってゐる Quinn the Eskimo (Mighty Quinn) なのだが、 この曲が好きな理由は單純で、Robbie Robertson のギター・ソロがまさに Robbie Robertson にしか彈けない最高のソロだからである。 しかし、それは Bob Dylan の魅力ではない。

ぢゃあ Bob Dylan でほかに好きな曲は、となると、 例へばこれ。 Blonde on Blonde の最後を飾る Sad Eyed Lady of the Lowlands

前作であり、Bob Dylan のアルバムでは最も有名でもある Highway 61 Revisited の最後の曲 Desolation Row も 11 分 21 秒の大作だったが、 ロック史上初の 2 枚組アルバムであった Blonde on Blonde の D 面をまるまる埋めてゐたのがこの Sad Eyed Lady of the Lowlands で、こちらも 11 分 23 秒の大作である。

どちらの曲もおれは大好きなのだが、多く聽いたのは間違ひなく Sad Eyed Lady of the Lowlands だ。 なぜって、おれはこの曲を一度聽いてしまふと、その日はずっとこの曲しか聽けなくなってしまひ、 一日中この曲を聽くことになるからだ。

なぜこの曲が、おれにそのやうな中毒性をもたらすのかは例によってさっぱりわからない。 この曲を愛する人が少なくないのは、Blonde on Blonde のレヴューをネットで漁ればすぐわかる。 が、その理由ははっきりしない。

歌詞がすばらしいって? まあそりゃあさうかもしれない。 なんたって、今や Bob Dylan はノーベル文學賞を取った男だ。 でもおれは、歌詞の文學的價値は曲の音樂的價値になんら寄與しないと考へてゐるし、 Bob Dylan の歌詞に夢中になったこともなく、それはこの曲も例外ではない (この曲の歌詞はとても美しいけれども)。

それに、この曲は最初から好きだったわけではない。 Desolation Row は初めて聽いたときから好きで何度も聽いたが、 それは Charlie McCoy の添へたギターに依るところが大きい。

對して、Sad Eyed Lady of the Lowlands にさうした印象的な演奏はなく、 名曲揃ひの Blonde on Blonde 中、 この曲は長らくおれにとって印象に殘らない曲でしかなかった。 大體、Blonde on Blonde は LP だと 2 枚組の大作なので、 最後に行くまでに集中力が切れてしまってゐたのだ。

そんなおれが、この曲のよさに氣づいたのは、ここ 10 年ぐらゐのことだ。 Blonde on Blonde は 10 代の頃から聽いてきたのだから、 よさがわかるまで 20 年ほどかかったことになる。

しかしわかるやうになったのはいい曲であるといふことだけで、 なぜいい曲だと感じるのかは未だに不明だ。

そもそも、Bob Dylan の長い曲は、ただ長いだけだ。 以前、Lou Reed のことを書いたときに、 Sister Ray は長さに必然性がないから寧ろすばらしいと書いたが、 あの曲があの長さを樂しめるのは、その長さが演奏で埋められてゐたからだ。 オルガンやギターによる音の奔流があったからだ。

Bob Dylan の曲に、そんなものはない。 基本的に、11 分の曲であれば、Bob Dylan は 11 分ほぼずっと唄ってゐる。 樂器によるソロが全くないわけではないが、全體から見るとあまりに比重は輕い。

また、Blonde on Blonde は Bob Dylan のアルバムの中では最もサイケ色が強いが、 ミニマル・ミュージックのやうな、繰返しによる酩酊感はない。 アルバム中、Sad Eyed Lady of the Lowlands の次に長い Visions of Johanna はかなりサイケだが、 これも長さがそのサイケさを形作ってゐるのではない。

つまり、Desolation RowSad Eyed Lady of the Lowlands があれだけ長いのは、 單に Bob Dylan の書いた歌詞がそれだけの長さだったからであって、それ以上の理由は恐らくない。 Bob Dylan の曲の長さは、音樂的必然ではなく、文學的必然に因るものなのだ。

だから、それに耳を傾ける必要はない。 歌詞を堪能したければ歌詞カードを見れば事足りるのであり、 11 分半もかけて、ただ長いだけの、盛り上がりや目まぐるしい展開があるわけでもない、繰返しのみでできた曲を聽く意味はないのだ (ちなみに、歌詞の 2 番が終はったあたりで「これで終はりだろ!」と思って盛り上げたのに、 Dylan が普通に唄ひ續けたので、「いつ終はんだよ…」と思った、なんてことをドラムの Kenny Buttrey は云ってゐる)。

なのに、おれは何度も何度も Sad Eyed Lady of the Lowlands を聽いてゐる。 しかも、歌詞の意味など全く氣にもしないで、だ。

この曲は、その歌詞の美しさに對して、音樂的にはひどく地味だ。 Bob Dylan の聲はもともと華々しいものでも目立つものでもないし、 ギター、ベース、ドラムは必要最低限しか入ってゐない。 オルガンによるささやかな味つけこそあるものの、 これとて Desolation Row のギターのやうに常に鳴ってゐるわけではない。

Bob Dylan と共演し、また Dylan の曲を數多くカヴァーしてきた Joan Baez によるカヴァーと比較してみれば、その差は顕著だ。 Baez の透き通るやうな歌聲、澄み渡るギター、全體に漂ふ清らかな空氣。 なるほど、Dylan の歌詞に合ってゐるのは寧ろこちらの演奏だらう。

しかし、音樂的にすばらしいのは、壓倒的に Dylan のヴァージョンである、とおれは思ってゐる。 10 段階 の 6 か 7 邊りをたゆたひ續けるぼんやりとした感覺。 それは、普通ならどこかで切り上げられるべきテンションであり、 續けても飽きたりだれたりするものだ。

それでも聽き續けられてしまふのは、 先に書いた、曲の地味さが奏效してゐる。 派手に主張してくるものがないから、逆に聽いてゐられるのだ。 Joan Baez のものは綺麗すぎて一度で充分、といふ氣になるが、 Bob Dylan のヴァージョンは、まあ鳴っててもいいかな、と思へてしまふ。 その感觸は、アンビエントに近い。 Dylan は 1966 年の時點で、さうした優れた音樂感覺を持ってゐた人なのだ。

Blonde on Blonde の 50 周年を記念して、 イギリスの Mojo 誌が Blonde on Blonde Revisited と題したカヴァー・アルバムをつけたのは 2016 年だが、 その中で Sad Eyed Lady of the Lowlands をカヴァーした Jim O'Rourke が、 環境音がかなり入った、 それでゐてシンプルなカヴァーにしたのは、 彼もまた、さういったアンビエント的なものを感じ取ってゐたからではないだらうか。

とはいへ、それだけがこの曲の魅力なのかと問はれれば、それは不明だ。 よくあるアンビエント・ミュージックのやうな、安っぽい音樂的調和はこの曲には皆無であり、 繰返しに耐へる氛圍氣を持ってゐたとしても、 この曲は音樂的必然によって繰り返されたのではなく、文學的必然によって繰り返されただけで、 その繰返しが獨特の空氣を形作ったのは、たまたまうまくいったといふ側面のはうが大きからう。

個々の部分を詳細に見て分析すれば、恐らく、これは大したことのない、よくある曲だ。 なのに、ずっと聽いてゐると虜になってゐる。心が惹かれてやまない。 音樂を聽くのは、これだからやめられないのである。

BLONDE ON BLONDE

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