When the Music's Over

音樂の話とゲームの話

Takagi Atsushi

寢て起きたらパソコンが起動しなくなってゐた。

で、「winload.exe がないぞ、修復しろ」なんて云ふもんだから、 久々に OS のディスクを探したら、懐かしい本が出てきた。

高木敦史『演奏しない軽音部と 4 枚の CD』だ。

https://www.hayakawa-online.co.jp/product/books/21151.html

おれにしては珍しく、全く知らなかったが本屋で見てその場で買ってしまった本である。 タイトルを見て、「ふーん、音樂がネタになってるのかな」と思ひ手に取ったら、 目次がかうなってゐたからだ。

Disc 1. ザイリーカ
Disc 2. コンタルコス
Disc 3. 無限大の幻覚
Disc 4. ハートに火をつけて
Bonus Disc ザ・インフォメーション

コンタルコス!!!

この文字がなければ、おれがこの本を買ってゐたかどうかは定かでない。 コンタルコス以外の 4 つのタイトルは、かなりメジャーだからだ。

一應解説しておくと、これらはすべて、そこそこ有名なアルバムのタイトルである。

ザイリーカはアメリカのロックバンド The Flaming Lips が 1997 年に發表した 8 枚目のスタジオ・アルバム。

無限大の幻覚は邦題なのでわからない人もゐるかもしれないが、 これは Lou Reed の Metal Machine Music だ (リリースは 1975 年)。

ハートに火をつけては云はずもがな、The Doors が 1967 年に發表したデビュー作。

最後のザ・インフォメーションは Beck が 2006 年に發表した 10 枚目のアルバム (發音的に正しいのはもちろん「ジ・インフォメーション」だが、邦題が「ザ」なのだから仕方ない――とはいへ、 實際はそこまで厳密でもないらしい。 「こんにちわ」にいちいち目くじら立てないやうなもんだらうか)。

The Flaming Lips も Lou Reed も The Doors も Beck も、 それなりに英米のロックを聽いてゐる人ならば誰もが知るやうな有名アーティストだ。

それに對して、コンタルコスは違ふ。 これはフランスのプログレバンド、Magma が 1974 年に發表したアルバムで、 プログレにそれなりに詳しくなければ知らないやうなものだ。 Magma て!

肝心の小説は輕い筆致による學園ミステリで、 ちょっとした事件を、主人公の友人で音樂に詳しい塔山くんが解決していく、といふものである。

そのちょっとした事件に、各章タイトルになってゐるアルバムが絡む。

取り上げられたアルバムは、どれも變なところのあるアルバムだ。 Zaireeka は 4 枚の CD を同時に再生しないと曲が成立しないし (簡單に云ふと、disc 1 にヴォーカルだけ、disc 2 にギターだけ、disc 3 にベースだけ、disc 4 にドラムだけが入ってゐるやうな感じ)、 Köhntarkösz は架空の言語コバイア語による敍事詩だし (コバイア語は Magma による創作で、デビュー作から使はれてゐる)、 Metal Machine Music は大抵の人は音樂だと思はない (が、ドイツの Zeitkratzer といふ集團はなんとこれをアコースティック樂器のみでほぼ完コピ!してゐる)。 The Doors の 1st は、アルバム自體に變なところはないが、 リマスターに關してちょっと話題になったアルバムだ。 Beck の The Information はジャケが自分でステッカーを貼って作るやうになってゐる (音樂的に變なところはない)。

これらのギミックが、うまく謎解きに絡んでゐる。 話の構成もうまいし、 登場人物たちも「ゐるゐる、かういふやつ」と感じる程度の、 わざとらしさがあまりないキャラ立ちをしてゐて嫌味がない。

本格的なミステリではないし、 著者はラノベ作家だからこれも輕い讀み物といふ感じで、 期待しすぎると肩透かしを喰ふが、 音樂好きなら充分に樂しめるだらう。

ところでこの小説、間違ひもいくつかあるので書いておく。 まづコンタルコス。「3 部作の 3 枚目」と書かれてゐるが 2 枚目である。 The Doors の 1st はリマスター盤のはうが速度が速いと書かれてゐるが逆。 實際はオリジナル盤より 3.5% ほど減速されて、正しいスピードになった。 それに、ボックスでしか手に入らなかったかのやうに書かれてゐるが、 單品もリリースされてゐた (ボックスセットが 2011 年に出たとも書かれてゐるが、正しくは 2006 年リリース)。 そもそもあれ、使った CD を犯人はどうやって囘收してたんですかね?  あとあと、Metal Machine Music がボックスに收録されてないからって、 「自分でもなかったことにしてた」とまで云わせちゃってますけど、 單純にあれ入れたら浮くからでは?  あのアルバムは評判メタクソだったけど本人は思ひ入れがあった、といふ話ならよく聞くけど、 そこまでひどい扱ひをしてゐたなんて話は聞いたことがない。 寧ろ、いろいろ云はれるけど愛着あってしゃうがない、みたいな話ばかりだ。 そもそもあの捻くれ者が、世間受けが惡かったからってなかったことにするかな? 逆に喜びさうなもんだけど。

おっと、つい好きなアルバムのことだからくどくなってしまった。 こんな瑕疵は些細なものであって(調べればすぐわかることでもあるけど…)、 この小説の面白みを損なったりはしない。

音樂を物語に絡めるといふと、大抵は歌詞を使ったものになるのに、 この小説はそれが全くないのもすばらしい。 特に、上でさんざんケチをつけておいてなんだが、 Metal Machine Music を題材とした第三話はこの中で最も見事な話だ。 作中の高校生がちょっと間違った知識をドヤ顔で披瀝したぐらゐで、この話の美しさは全く傷つかない。

この小説に出てくる音樂をまるで知らない人でも、この本は樂しく讀めるだらう。 だが、音樂好きが讀んだ場合、さうした人たちが抱かない思ひをきっと一つ抱くことになる。

それは、「自分にもかういふ物語が書けないものか」といふ思ひだ。 例へば、Toyomu の『印象III : なんとなく、パブロ』をネタにしてみるのはどうだ。 あるいは、スタニスワフ・レムの小説のやうに、 音盤をでっち上げてしまふのは?

久しぶりに讀み返しておれもさういふ氣持ちになったので、 まあ、うん、さうですね、うまく書けたりなんかしたら、 ここに公開したいと思ひます。 書けるといいなあ。