When the Music's Over

音樂の話とゲームの話

James Brown

物欲に囚はれ、電子の世界には山のやうにゲームを積み、現實ではレコードや CD、 本を所狭しと置きまくってゐるおれではあるが、 ミニマリストの欲求といふのは、わからなくもない。

といって、別に身輕になりたいと思ってゐるわけではない。音樂の話である。 いや、音樂の話といっても、 ミニマル好きが昂じてドローンへ行き着いてしまった、 とかさういふ話でもない。

おれが好きなのは、どこか過剰なところのある音樂である。 それは別に要素の多様さや、一線を越えてしまったものなどに限ったことではなく、 最小要素で見事に構成された音樂も含まれるよ、といふ話なのだ。 この場合は、過剰な少なさを愛してゐるわけだ。

例へば、少し前に映畫が大ヒットした Queen といふバンドがある。 映畫の内容に興味がなかったためおれは見に行ってゐないが、 それでもおれは、結構な Queen のファンである。

その Queen の、おれが考へる最も偉大な業績は、 We Will Rock You を作ったことである (なほ、最もすばらしいアルバムは Innuendo だと思ってゐるが、 その話はまたの機會に譲らう)。

あの曲の素晴らしさは、なんといってもその構成要素の少なさだ。 足踏みと手拍子、ヴォーカル、最後にほんの少しのギターソロ。 たったそれだけなのに、完璧にロックだ。 普段は歌詞など音樂的な価値には關係しないと主張してゐるおれだが、 この曲に限っては、サビの “we will rock you” といふ言葉も この曲の価値を高めるのに一役買ってゐる、と認めざるを得ない。 誰もが口ずさめる單純さに加へ、おまへをロックしてやる、 といふ、わかるんだかわからないんだか不明の、 それでゐて實にロックな言葉。 これ以上にこの曲に相應しい歌詞もあるまい。

しかし、別に Queen はさういふ音樂ばかり作ってゐたわけではない。 Queen の曲で最も有名な Bohemian Rhapsody などは 構成要素が少ないどころか、逆に過剰すぎる曲である。 そこがまた愛される部分でもあるのだらうが、 實際そちらのはうが Queen らしくはある。

そんな Queen とは違ひ、意識的に極小の要素で曲を作りまくってゐた男がゐる。 James Brown だ(以下、JB)。

JB は Godfather of Soul と呼ばれることもあるとほり、 ソウル・ミュージックの生みの親であるわけだが、 ソウルと呼べる音樂を同時代に作ってゐたのは何も JB ばかりではない。

例へば Sam Cooke。例へば Otis Redding。それにもちろん、Motown の面々。 大體、未だに R&B とソウルの境界ははっきりしてゐない (まあ、現代の R&B と呼ばれる音樂は、 かつて R&B と呼ばれてゐた音樂とはだいぶ違ふので、 それを R&B とするなら、かつての R&B から派生したソウルとは 明確に區別できるが)。

JB の眞に偉大なところは、ファンクといふ、 新しい音樂の可能性を表現したことだ。

山岸由花子のあれ

殘念ながら、 高いマンガ力をお持ちの荒木飛呂彦先生は Grateful Dead を正しく譯せない程度の英語力しかなく *1これも正しい答へはないのだが、話の中で正解とされてゐる「原始の音楽」といふのは あながち外れてゐるとも云へない。 funky といふのは、「古臭い」とか「野暮ったい」といった意味の單語だからだ。 それを「洗練されてゐない」と解釈すれば、まあ「原始の」まではそれほど遠くない。

どの邊りが洗練されてゐないのか、聽いてもらはう。

これを唄ってゐる人が JB である。 この人だったのか!と思ふ人もゐる程度にはよく知られた曲であらう。

この曲の何が funky なのか。

敏感な人はすぐ氣づくだらうが、この曲はたった 2 小節で構成されてゐる。 しかも、verse で 1 小節、bridge で 1 小節である。 その 1 小節を、蜿蜒と繰り返してゐるのだ。 加へて、verse といふのは日本で云ふ A メロ、 bridge といふのは日本で云ふ B メロのことだが (サビは chorus である)、 聽いてもらへればわかるとほり、 メロディもクソもない。 入ったばかりの Collins 兄弟は こんな繰り返しだらけのギターとベースを弾かされてて、どう思ったのだらう。

といふのにだ。 これだけで死ぬほどかっこいいのが JB の偉大さだ。 たったこれだけで音樂は人の體を揺さぶることができる、 それを JB はハッキリと示してみせた。

JB がかうした極小要素のファンクの先鞭をつけたのが、 1969 年に發表された Give It Up or Turnit a LooseI Don't Want Nobody to Give Me Nothing (Open Up the Door, I'll Get It Myself) および Mother Popcorn である。 中でも、特筆に値するのは Mother Popcorn であらう。

こちらは、verse、bridge ともに 2 小節で構成されてゐる。 Get Up (I Feel Like Being a) Sex Machine の 2 倍、 しかも Maceo Parker のサックスソロまで入ってゐる。

と、構成要素が多いやうに書いてみたが、 實際に聽いてみれば、ほぼずっと同じことの繰り返しである。 しかし、おれは JB の曲でこれが最も好きだ。

何よりドラムがいい。 このときのメンバーは JB のバンドの最初の黄金期である (先の Get Up (I Feel Like Being a) Sex Machine が録音される直前に 給与紛争で全員が馘首されてゐるが、新メンバーが次の黄金期を築いてしまふのだからそれもまたすごい)。 つまり、ドラムは世界で最もサンプリングされたドラマー、Clyde Stubblefield その人であり、 かっこよくないはずがないのだが、 verse 1 小節目の 最後に入るスネアの絶妙さといったらもう (スネアは普通、1 小節を 8 つに區切ると 3 と 7 の位置に入れるのだが、 この曲は 1 小節目のスネアが 3 と 8 の位置に入ってゐる)。

ニコニコ動画に「耐久~分(あるいは~時間)」と題した、 同じ音樂をループさせ続けるものがよくあるけれども、 JB はそれをリアルに、ポップミュージックとして、 1969 年の時点で發表してゐた、と云へる。

いやいや 6 分しかないぢゃん、って?  この曲の再生時間は本質的なものではない。 これは當時の 7 インチシングルの収録時間が常識的に片面 3 分程度であったから、 両面合はせて 6 分ほどになってゐるだけで、 實際に聽いてみれば、6 分とは思へないほどに繰り返しの感覚を味ははされたと思ふ。

JB はさういふ、最小要素の繰り返しでも充分にポピュラー音樂が成立する、 といふことに逸早く氣づき實踐した天才である。 おお、JB よ、榮光なれ。

ところで、これは完全に餘談なのだが、 この Mother Popcorn はシングルで發表されたため、 もともとの 6 分ほどの演奏を 2 つにぶった切ってあり、 その所爲で A 面の最後と B 面の最初がかぶってゐる。 先の YouTube で聽けるものは、それを單純につなげただけなので、 Maceo Parker のソロが始まるあたりで少し巻き戻ったやうになってしまってゐる。 これは、この曲が収録されてゐる It's a Mother でも同樣で、實に殘念なポイントだ。

で、もともとの 6 分ほどの、切られなかったヴァージョンはないのか?といふ話になるのだが、 これは JB の 4 枚組ボックス Star Time にしか収録されてゐないやうだ。 おれはもちろん持ってゐるので、この曲を聽くときはいつもそれを聽いてゐるが、 なんとこれ、Spotify でも聽けないStar Time 自體はあるのに!)。

何が云ひたいかっていふとですね、それでしか聽けないのだし、 それでなくとも Star Time はすばらしいボックスだから JB が少しでも氣になるなら迷はず買へ!ってことだ。

JB のひとつも持ってないなんて、音樂好きとして恥づべきことですよ?

Star Time

Star Time

  • アーティスト:James Brown
  • 出版社/メーカー: Polydor / Umgd
  • 発売日: 1991/05/07
  • メディア: CD

*1:おれが云ふまでもなく知られた事實だらうとは思ふが ――といふか Grateful Dead のファンならきっと大抵の人は知ってゐることだが――、 grateful dead は「偉大なる死」ではない。 grate の部分を見て「偉大」としたのだらうが、「偉大な」のは great で綴りが違ふ。 grate は gratify 「満たす・満足させる」と同じ語源を持つ語である。 それに、「死」は death であって、dead は「屍體、屍者」といふ意味だ。 日本っぽく訳せば「成佛した屍者」とかだらうか。 尤も、英語力はマンガの価値に寄与するものではなく、 この譯が間違ってゐたところで、ジョジョの面白さに何の傷もつかないのは当然のことだ。