When the Music's Over

音樂の話とゲームの話

Mozart: KV 333 (315c)

Mozart の KV 333 (315c)、所謂ピアノ・ソナタ第 13 番を初めて意識的に聽いたのは、 Zappa の You Can't Do That on Stage Anymore vol. 5 でだった。 死後のアルバム Finer Moments には、その全長版が收録されてゐる。

これを聽いたのは 20 になるかならないかの頃で、 當時はクラシックが興味の對象外だったので、 曲名すら碌に憶えてはゐなかった。

しかし、クラシックの樂しみ方といへば聽き比べである。 この KV 333 も多くの名ピアニストによって録音されてゐる。

お手本になるやうな堅実な演奏が聽きたければ、 内田光子のものがよい。

惚れ惚れするほど美しい演奏である。 Mozart の曲は華美でロマンティックなものが多く、 この曲も例に漏れない。

だからといって、情感たっぷりに演奏すればよい、といふものではない。 それは、ともすれば Mozart の持つ輕やかさを損なふことになるし、 麗しいメロディが安っぽいものに成り果ててしまふ危險も孕む。 といって、淡々と樂譜を追ふだけでは藝がない。

内田光子の演奏は、さうしたバランスの取り方の、これ以上なく鮮やかな見本である。 ピアノフォルテでのお手本も殘してもらひたいが、まあ無理だらうなあ。

内田光子とは對稱的に、情緒たっぷり、 ロマンティックを通り越してドラマティックな域にまで達した演奏をしてゐるのが Vladimir Horowitz。

大胆なテンポのゆらぎ、あからさますぎる強弱。 Horowitz だから許されるのであって、 素人がコンクールで披露しようものなら、 「おまへは Mozart のことがなんにもわかってゐない」と口を極めて罵られるレベルである。

別の意味でも、Horowitz にしか許されない演奏である。 これだけテンポや音の強弱をアレンジしてみせながら、 表現のブレが一切ない。 どのパートも明瞭な意志を持って傳はってくる。

Horowitz のやうにドラマティックに演奏しよう、と思ふのは簡單だ。 しかし、それを他人に傳へられるかどうかは別の話。 Horowitz の卓拔した腕があってこそ、初めて實現できることなのである。 大胆な表現を繊細なタッチによってリアライズできるのは、 Horowitz の面目躍如といったところだらう。

Horowitz とは違った意味で大胆なのが Friedrich Gulda である。

大胆なのは服装ではない。演奏内容だ。 KV 333 の標準的な演奏時間は 20 ~ 25 分である。 なのに、この Gulda の演奏は 28 分もある(再生時間は 29 分だが、1 分ほどは拍手や挨拶)。 Celibidache のやうに、テンポを極端に遅くしてゐるわけでもない。

答へは簡單。Gulda は即興演奏を交えて演奏してゐるのだ。

これは、クラシックに於いては大胆どころか、暴擧とすら看做される行ひである。 クラシックとは樂譜をどう解釋するかに焦点を當てるジャンルであり、 それは、作曲者への大いなる敬意から來るものだ。 樂曲そのものの著作権などとっくのとうに消滅してゐるのだから、 中身を改変して演奏しようが、文句を云はれる筋合ひはない。 にもかかはらず、作曲者の意図を汲取ることこそを意義としてゐるのだから、 これはもう敬意と云ふほかあるまい。

それと對極的なジャンルは、モダン・ジャズである。 モダン・ジャズに於いて、作曲者の意図などといふものはほぼ顧みられることがない。 モダン・ジャズの曲はゲームの駒でしかなく、 重要なのは演奏者のゲームの腕前だからだ (そもそも樂譜の扱ひすらいい加減だ)。

Gulda といふ人は、20 世紀の偉大なピアニストの一人としてクラシックの世界にその名が輝く人でありながら、 この相反する 2 つのジャンルに惹かれた人であった。 轉向しようとして周囲から止められるほどにジャズに傾倒してゐたといふから、 餘程のものだったのであらう。 そんな Gulda だからこその演奏だと思ふ。

上に舉げた 3 つの演奏は、どれも甲乙つけ難いすばらしさを持つ演奏だが、 個人的な好みで云へば、聽いてゐて面白いのはやはり Gulda である。 おれは、Mozart の曲の魅力の一つは「かはいらしさ」だと思ってゐるのだが、 上の 3 つの演奏で、最もかはいく仕上がってゐるのが Gulda のものだからだ。 違和感のない即興を挟むのもお茶目で、Mozart のかはいさを補強してすらゐると思ふ。

内田光子の聳えたつやうな美しさを持った演奏も、 Horowitz のゴージャスで立體感に富む演奏も、 すばらしさといふ點で Gulda に劣るものでは全くない。 でも、Gulda の演奏にはその 2 つにはないキュートさが滿ちてゐて、 思はず頬が緩んでしまふのだ。

ちなみに、誰もが知るであらう Glenn Gould の Mozart は絶對におすすめしない。 あれは Gould マニアだけが買へばいいものである。 といふのも、Gould は Mozart 嫌ひを公言してゐて、 そのくせピアノ・ソナタは全曲録音するといふ、 Mozart に對して極めて屈折した思ひを抱へてゐた人で、 例へばこの KV 333 は恐ろしく速いテンポで演奏されてゐる。 なんと、たった 13 分しかない。ほとんど倍速である。

Gould は初版の Goldberg だって、 Mondscheinsonate(月光)だって速いぢゃないかと云はれればまあその通りではある。 しかし、それらは曲の魅力を引き出すための工夫であった。 對して、Mozart には惡意を持って演奏してゐるやうにしか思へない。 Gould による KV 331(300i)の第 3 樂章、所謂トルコ行進曲を聽けば、誰だってそれはわかると思ふ。

ただ、YouTube にある Gould の KV 333 は、そこまで極端ではない。 充分に眞っ當な演奏なのである。テンポはね。演奏は殘念ながら退屈だ。

Gould は大好きだが、Gould の Mozart がすばらしいとはどうしても思へない。 絶對もっといい演奏できただらう!といふ思ひが拭へないからだ。 amazon で星 5 が竝んでるのは信じ難いよ。

(2019/08/31 追記)

これだけ長々と書いたくせに、おれにとって最高の Mozart はここで舉げてゐないものになってしまった