When the Music's Over

音樂の話とゲームの話

Haino Keiji #1

間抜けな話だと自分でも思ふが、 前囘の Red Bull Music Academy の記事に貼りつけた動畫のサムネイルを見るたびにテンションが上がってしまふ。 我がアイドル、灰野さんがででんと構へてゐるからだ。

以前、友人から「結局、一番好きなジャンルはなんなの?」と問はれた際に、 悩んだ擧句、「灰野敬二」と答へたことがある。 今でもその考へは變はってゐない。

好きなジャンルを訊かれたのに、 なんで個人名を答へてるんだよ、とお思ひの方もをられるかもしれない。 しかし、それこそが灰野さんのすごさなのだ。 灰野さんのやってゐる音樂は、灰野敬二としか云へない。

しかし、そんな灰野さんの音樂は、實にわかりにくい。 否、わかりにくいといふか、説明しづらいのだ。 音樂評論といふものを信用してゐない、と前に書いたと思ふが、 その例の一つが、灰野さんである。 灰野さんの音樂がなぜあんなにすばらしいのか、 きちんと音樂的に評論してもらひたい。 それができないやうな音樂評論は、評論でもなんでもなからう。

灰野さんの音樂を理解できるかどうかは、その人の音樂への態度に大きく依據してゐる。 ポピュラー音樂ばかり聽いてゐる人は、恐らく灰野さんのすごさを理解できない。 變な先入觀さへなければ、灰野さんの魅力には一發で氣づく。 現に、おれが灰野さんを聽かせた中で、灰野さんのファンになった人たちは、 初めて灰野さんを聽かせたときから、「灰野さんってすげー!」といふ反應を見せた。

どういふ音樂なのか、と問はれると答へやうがない。 たまに、ノイズだったりサイケだったりに分類されてゐるのを見たことがあるが、 灰野さんの音樂は、まあサイケであったりはするが、 斷じてノイズではない。 灰野さんをノイズだと思ってゐるやつらは、 「なんだかよくわからんがうるさいからノイズで」といふいい加減な基準で分類したとしか思へない。 全く阿呆である。 何もわかっちゃゐない。 あの灰野さんの美しい音樂の、どこがノイズだと云ふのか。

かつて『ドキュメント灰野敬二』といふ映畫が公開された際、 Jim O'Rourke はこんなコメントを寄せてゐた。

Chick Corea はピアニストです。Cecil Taylor は Cecil Taylor です。 John McLaughlin はギタリストです。Derek Bailey は Derek Bailey です。 Fredie Hubbard はトランペットを吹いて。Miles Davis は Miles Davis です。 灰野敬二は灰野敬二です。

でも、これですら正確ではない。 Cecil Taylor や Derek Bailey、Miles Davis といった人たちは、 確かに替への利かない音樂を創造した人たちだが、 それでも「ジャズ」といふジャンルに呑み込まれてしまふ (Bailey はちょっと難しいところだが)。 ジャンルを横斷したといへば、Frank Zappa だってさうだが、 Zappa の音樂も、既に存在するジャンルをいくつか組み合はせれば説明できてしまふ。 灰野さんの音樂は、さうではない。

灰野さんの音樂は、今までにあった音樂でも、これからできる音樂でもない。 ジャンルといふ安易な批評に囘收されることができないのに、 灰野さんの音樂は、聽けば一發で灰野さんだとわかる。 そんな音樂を作ってゐる人は、外にいない。

とはいへ、灰野さんの音樂を表現する言葉がまったくないのかといへば、そんなことはない。 誤解を恐れずに云ふなら、灰野さんの音樂は、邪王炎殺黒龍波である。

なにいってだこいつ、と思はれるだらう。 いや全く、その評価は正しい。 正しいんだが、さうとでも云ふしかないのだ。

例へば、灰野さんといへば、眞っ黒。 服も CD のジャケも眞っ黒だ (最近、CD のジャケはカラフルになってきたが)。 どんなときでもサングラスを外さない。 演奏中の灰野さんはまるでシャーマンだし、 奏でられる音樂も異世界のもののやうに響く。

つまり、邪王炎殺黒龍波だ。 別に灰野さんが飛影の腕から出る、といふわけではない。 必殺技に「邪王炎殺黒龍波」などといふ名を恥づかしげもなくつけ、 それを平氣で決め技として口に出せるセンス、 灰野さんの音樂は、それと同じ地平にある (まあ、さすがにそんなマンガのやうな名付けはされないが)。

灰野さんの恐ろしいところは、 それらが全て、樣になってゐることだ。 中二のがきんちょが、邪氣眼を氣取ってゐるのとはわけが違ふ。

中二病といふのは、普通は肥大化した自意識の發露であり、 承認欲求をこじらせた結果である。 他人とは一線を劃す自分を演じ、 他人を幼稚だと見下し、 自分を特別な人間であるかのやうに錯覺する。

中二病が恥ずかしいものであるのは、 それが錯覺でしかないからだ。 普通でないやうに演じる必要がある時點で、 中二病罹患者は特別でもなんでもなく、薄っぺらな人間に過ぎないとわかる。 特別でありたいと望み、特別であるやうに振る舞ふさまに實が伴ってゐないから傍らいたいのだ。

灰野さんは、結果的に中学二年生がかっこいいと思ひさうなことを體現してゐるが、 そこに承認欲求は恐らく全くない。 そして何より、灰野さんは特別であらうと演じてああなのではない。 灰野さんは灰野さんたらんとしてああなってゐるだけなのだ。 そこが中二病との大きな違ひであり、だからこそ灰野さんはかっこいい。

自意識は、灰野さんだって過剰である。 それは認めよう。 しかし、過剰でない自意識を持たない人間が、 どれほど非凡であれるといふのか。 灰野さんは確信を持って己の道を進んでをり、 さういふ人間の自意識は、過剰になるに決まってゐるのだ。

灰野さんの音樂を、あんなのどうせ出鱈目だらう、と切り捨てるのは容易い。 でも、例へば邪王炎殺黒龍波を地獄のミサワ化してしまふより、 邪王炎殺黒龍波について眞劍な議論をするはうが、マンガを樂しめると思ひませんか。 地獄のミサワだって面白いし大好きだけど、世の中すべてをああいふ見方で見ちゃったら、つまんないぢゃあないですか。

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