Sergiu Celibidache: Nutcracker Suite
いい音樂を聽いたときに知らず體が動いてしまったり、背筋がゾクッとしたりといった經驗は、誰しもあるだらうと思ふ。 だが、個人的な音樂體驗で至上のものは法悦である。
音樂を聽くといふ行爲は、聽覺しか使はないため、大抵は外に別のことをしながら同時に行ふことができる。 おれだって、普段は音樂を聽きながらなにか別の作業をしてゐる。
しかし、さういふことを許さない音樂といふのが稀にある。 何かをしながらではもったいない、全神經を集中させないと損だ、と思はせてくれる音樂。
おれにとって、さういったものの一つが、 この Celibidache 指揮による Tchaikovsky の Nutcracker Suite（くるみ割り人形）だ。
この Celibidache といふルーマニア出身の指揮者は、とにかく遅い演奏で知られる。 とはいへ、演奏のテンポが遅くなっていったのは他の多くの指揮者と同じく晩年にかけてであり、 若い頃は一般的なテンポで演奏を行ってゐる。
例へば、Celibidache による Ravel の Bolero は YouTube に複数の映像がアップされてゐるが、 65 年（若い！）や 71 年のものが遅さを感じさせないのに比べ、90 年代のものは顕著に遅い （個人的には 71 年のものが好きだ。音も惡くないし、なんたって表情を豊かに變化させる Celibidache ばかりを冩してゐるのがいい）。
ところで、なんでもかんでも遅くしてしまふ Celibidache だが、 これはもちろんいいことばかりではない。 合ふ合はないが作曲家によって異なるのだ。
例へば、Celibidache による Beethoven はハッキリ云っていまいちである。 そもそも、Celibidache 自身、Beethoven のことをあまり高く評価してゐない（あの有名な第 5 ですらボロカス）。
反面、彼が高く評価してゐる Bruckner や Tchaikovsky の演奏は見事と云ふ外ない。 Bruckner はその莊嚴さを餘すところなく堪能できるし、 Tchaikosky のベタベタなロマンティシズムも Celibidache にかかれば 細緻に描かれた星の瞬きのやうになる。
Celibidache の Nutcracker は組曲版だが、 全曲版よりもすっきりまとまってゐていい。 といふか、こればかり聽いてゐる所爲で、全曲版は冗長に感じるやうになってしまった （それどころか、他の組曲版も速いと感じてしまふレベルでこればかり聽いてゐる）。
テンポの遅さから生じる優雅さが全体をゆったりと包み、一糸の乱れもなく旋律を紡ぎあげていく樣は 他の Nutcracker には見られない、Celibidache 特有のものだ。
それでゐて、Danse Russe Trepak（ロシアの踊り）は スピード感を失ふことなく、 Danse Chinoise（中国の踊り）や Danse des mirlitons（葦笛の踊り）では 繊細かつカラフルな音を響かせる。
最後の Valse des fleurs（花のワルツ）に至っては、 それまでゆっくりと積み上げてきた細やかな構造物が全貌を現す。
こんなに美しく、綺羅びやかで、朗々とした演奏はさうさう聽けるものではない。 自分が演奏者だったら、歡喜にこらえきれずテンポを上げてしまふだらう。
しかし、Celibidache に鍛へ上げられた Münchner Philharmoniker がそんな愚を犯すはずもなく、 われわれは最後まで、この優美でふくよかな音樂に耽溺することを許される。 これを書くためにまた飽きもせず聽いたのだが、ほとんど忘我の境で全く捗らなかった。
Celibidache による Nutcracker Suite は Valse des fleurs のみ YouTube で聽けるが、 ここには敢へて貼らない（外にいくつか出てくるものは、 ここでおれが採りあげてゐる 93 年録音とは別の録音）。
Nutcracker Suite は組曲全体を味はふものであって、 假令それが Valse des fleurs だったとしても、 單獨で聽いてしまっては、あの得も言はれぬ感覺に達することができないからだ。
この曲を收録した 2 枚組 CD よりもボックスのはうが値段的に圧倒的にお得なので、 下のリンクはボックスのものにしておいたが、 Nutcracker Suite だけなら 30 分程度なので、 Spotify なんかでちょいちょいっと聽いてほしい。
その上で、音樂を聽く悦びを味はってもらえたりした日には、紹介者冥利に尽きるといふものだ。
